菜の花や筑紫次郎にほんのり酒気
作 者 |
|
季 語 |
|
季 節 |
春 |
出 典 |
|
前 書 |
|
評 言 |
3月11日の東北地方を中心とした想定をはるかに超えた地震・津波による大災害、明治三陸地震を超えた死者・行方不明者の数、まず、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに被災された方々に心からお見舞いを申し上げます。 自然災害も台風など季節的、水平的に襲ってくる脅威と異なり、地震のように垂直的に襲ってくる脅威への瞬時の判断力と人的、組織的、社会的な対応力など自然の膨大なエネルギーの前に人間の経験則の無力さを改めて知ることとなった。 掲句の「筑紫次郎」は大分県の三隈川などを経て福岡県の筑後平野を潤しつつ有明海へ注ぐ全長約123キロの筑後川の別名でかって、暴れ川として流域に甚大な被害を与えてきた。作者は日田に永く住む。日田の三隈川は右岸に旅館街、5月は鵜飼が観光に一役買っているが1953年(昭和28年)に氾濫。 一方、この川は享保19年(1734年)には筑後川通船として物資の運搬が行われている。また、明治以降は管流しで三隈川で筏に組む「筏流し」が盛んに行われていた。吉野林業が紀ノ川と木曽林業が木曽川と秋田林業が能代川と深いかかわりを持つと同様である。この風物詩も昭和29年、下流に夜明ダムが完成して長い歴史の幕を閉じている。 掲句は三隈川岸に咲く菜の花の頃、流域に住む人々の新鮮な明るい息吹きの抒情的な景色の中に、ふっと暴れ川「筑紫次郎」を覚えていたに相違ない。故人となった作者に確認のすべはないが酒気はそうした自然の美しい情景と内蔵する狂気を併せ持つ筑後川流域の人間の営為に思いを馳せたものと思っている。 後年、上流に下筌・松原ダムが完成「筑紫次郎」を今日まで克服している。 (写真も評者による) |
評 者 |
|
備 考 |
- 菜の花や筑紫次郎にほんのり酒気のページへのリンク