自由飛行 対 繋留飛行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 16:03 UTC 版)
「北軍気球司令部」の記事における「自由飛行 対 繋留飛行」の解説
気球を操縦するには2つの方法、すなわち自由飛行と繋留飛行があった。自由飛行は、操縦士が飛べる限りどの方向でも如何なる距離でも移動できることを意味している。繋留飛行は、気球が1本あるいは連続した索で地上の仲間の所に繋がれていることを意味している。自由飛行の場合、操縦士は自分の制御で上昇し戻ってくる必要がある。繋留飛行の場合、地上の仲間が高さ制御を手助けし、戻るときは正確に出発地点に迅速に戻って来られる。索は地上に電文を流す導線としても使える。気球観測から得られた情報は幾つかの信号術で地上に伝えられる。高々度からは電信がほとんど常に必要とされた。低い高度では準備された旗信号、手信号あるいはメガフォンですら地上との対話に利用できた。夜間では、電信かランプが利用できた。ローがその任にあった時期の後半での戦闘には、あらゆる報告と対話は気球で上昇および下降することで口頭で伝えられるよう命令された。このことはローの陸軍長官に対する公式報告書第2号で、通常の伝言複写が突然無くなっていることからも分かる。 ラマウンテンとローは長い間自由飛行か繋留飛行かということで議論を続けた。ローがブルランで初めてデモンストレーションを行ったときは自由飛行を行い、北軍宿営地の上で空中静止したが、北軍兵のだれも適切にローを識別できなかった。ローは文民なので制服も記章も着けていなかった。下降する毎に発砲の脅威に遭い、また下降するためにはガスを放出する必要があった。一度は敵の前線背後に不時着して、夜通し救出を待ったこともあった。この事故以来、ローは地上に繋留された状態を選び、危急の際には巻き降ろして貰えるようにした。それ以外にも、気球籠からの電報送信には索に沿わせた電信線が必要だった。 ラマウンテンはモンロー砦の陣地から贅沢な自由飛行を楽しんだ。気球司令部の下に付いたとき、自分の偵察飛行は自由でなければならないと主張した。ローは隊員には厳格に決定事項だとして自由飛行に反対する指示を出した。最終的に2人は決着を付けるときだと合意し、ラマウンテンはその自由飛行を行った。この飛行は生きたいところへはどこへでも行けたので偵察としては成功だった。しかし、帰還するときにラマウンテンを識別できない北軍兵に脅されることになった。その気球は打ち落とされ、はっきりとその人だと判明するまで手荒な待遇を受けた。 ローはこの出来事が自由飛行に対する反論になると考えた。ラマウンテンは不幸な事故があったものの、飛行は大いに成功だったと主張した。この決着の試みは議論を落ち着かせるためには何にもならなかったが。気球操縦士長としてのローの位置付けは揺るぎないものになった.。
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