自由革命と開発民主主義の時代(1955年-1966年)
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ペロン追放後1955年9月23日にエドゥアルド・ロナルディ将軍は臨時大統領に就任し、ペロン体制で実現された労働者の既得権を認めることを含めて、国民的合意を訴えた。しかし、反ペロン派の軍人、政治家、知識人はこのような穏健策には納得せず、同年11月13日に彼等の主導権によって強硬な反ペロン派のペドロ・エウヘニオ・アランブル大統領が就任し、ペロニスタへの大弾圧が行われた。こうしてペロニスタ指導部は次々と逮捕され、賃上げは抑制され、経済拡大のための外国資本導入が図られ、1956年にはペロンが制定した1949年憲法が破棄されて1853年憲法が復活した。これはアルゼンチンの社会経済体制をペロン登場以前の状態に戻そうとするための試みだったが、「自由革命」とも「寡頭支配層の復讐」とも呼ばれるこのような政策は、ペロンの政策により明確になった労働者大衆と富裕層との間の亀裂をより大きなものにしてしまい、以降アルゼンチンは数十年に渡りこの対立が巨大な政治的不安定要因となる。 フィデル・カストロと会談するアルトゥーロ・フロンディシ。これが一因となって結果的に軍事クーデターで政権を追われる アルトゥーロ・ウンベルト・イリアとシャルル・ド・ゴール(クラリン紙、1964年10月4日) 1958年に急進党非妥協派から就任したアルトゥーロ・フロンディシ大統領は、当初ナショナリズム路線を標榜してペロニスタの支持を取り付けることによって当選したものの、石油産業開発のために外資導入が不可欠があることを認めると、同年12月に外資法を制定し外国資本の積極導入による重工業発展のモデルを目指したことがペロニスタに批判された。さらにキューバ革命後のカストロ政権への制裁反対や、1961年にウルグアイのプンタ・デル・エステでの米州機構の総会でキューバの閣僚となっていたチェ・ゲバラと会談したことが反共的な軍部の反感を買い、1962年に軍事クーデターによって追放された。 ホセ・マリア・ギドの暫定政権の後に、1963年7月に急進党人民派から当選したアルトゥーロ・ウンベルト・イリア大統領はナショナリズム政策を採ったが、これがインフレ、外資不足を招き、さらに左傾化したペロニスタによる工場占拠などの実力行使は社会不安を招いた。このため、イリアは1966年6月にクーデターで失脚した。
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