自由黒人と奴隷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 02:26 UTC 版)
「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」の記事における「自由黒人と奴隷」の解説
奴隷所有者の中には黒人や先祖が黒人である者がいた。1830年、南部には3,775人のそのような奴隷所有者がおり、その80%はルイジアナ州、サウスカロライナ州、バージニア州、およびメリーランド州にいた。彼らのうち半数は田舎よりも都市に住み、ニューオーリンズとチャールストンの2つの市が多かった。その中でもしっかりした基盤のある農園主は極少数であり、多くは混血であった。 歴史家のジョン・ホープ・フランクリンとローレン・シュウェニンジャーは次のように記した。 自由黒人で奴隷を所有し利益を上げている者の大多数はローワー・サウスに住んだ。その大半は混血であり、白人男性と同棲または愛人であったり混血男性であった。白人から土地や奴隷を与えられ、農園やプランテーションを所有し、米、綿花および砂糖などを手ずから栽培していたが、当時の白人と同様に奴隷の脱走には悩まされていた。 — Franklin and Schweninger pg. 201 歴史家のアイラ・バーリンは次のように記した。 奴隷社会では、自由であろうと奴隷であろうとほとんど全ての者が奴隷を所有する階級になりたいと願い、時には元奴隷が奴隷所有者まで上る場合もあった。そのような者も血縁に縛られていたり、アメリカ人奴隷の場合は肌の色という烙印があるので、快く受け入れられていたとは言い難い。 — Berlin, "Generations of Captivity" pg. 9 自由黒人は、「黒人と奴隷は同義語という考え方に挑むことで常に奴隷所有者にとっての象徴的な脅威」と認識されていた。自由黒人は逃亡奴隷の潜在的な結託者と見なされており、「奴隷所有者は自由黒人に対する恐れや嫌悪感をはっきりと証言していた。不安定な自由を得ているに過ぎない自由黒人にとって、『奴隷を所有することは、経済的な利便性だけでなく、自由黒人であることを証明する必要欠くべからざるものであり』、過去の奴隷状態に決別し、承認されないまでも奴隷制そのものを受け入れることであった。」 歴史家のジェイムズ・オークスは、「黒人の奴隷所有者の圧倒的多数がその家族の一員を購い、慈善家として振る舞う自由人であった証拠がある」と述べた。19世紀の初期、南部の諸州は奴隷所有者が奴隷を解放することをどんどん難しくしており、しばしば家族の一員を購う者は選択の余地もなく紙の上で主人と奴隷の関係を続けていくしかなかった。1850年代、「奴隷は出来る限り白人のみの管理に留めて置くべきであるという根拠で、保証人を持つ権利も制限するようなことが行われるようになった。」
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