自由黒人に関する「問題」解決策としての植民地化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 10:01 UTC 版)
「アメリカ植民地協会」の記事における「自由黒人に関する「問題」解決策としての植民地化」の解説
アメリカ独立戦争の後、奴隷制という「特異な制度」とそれに縛られる者の数は増大した。それと同時に、戦争が火付け役となった奴隷解放や北部州での奴隷制廃止という動きもあって、自由黒人の数も増大した。 移民の支持者達を動機付けた出来事には、1800年のガブリエル・プロッサーが指揮して失敗した奴隷反乱や或る者には警告と受け取られたアメリカ合衆国内の自由アフリカ系アメリカ人数の急速な拡大があった。1790年から1800年の白人対黒人の人口比率は8対2だったが、植民地化の賛成者を妨げたのは自由アフリカ系アメリカ人数の大きな増加だった。1790年から1800年に掛けて、自由アフリカ系アメリカ人の数は59,467人(アメリカ合衆国人口の1%、黒人人口の7%)から108,378人(アメリカ合衆国人口の2%)まで増え、増加率は82%だった。1800年から1810年に掛けては、その数が186,446人(アメリカ合衆国人口の2%)となり、増加率は72%だった。 この着実な増加はその社会の中にいる自由黒人の存在に気付くようになり心配していた白人社会では当然ながら注目された。自由黒人、特に自由州(奴隷制を廃止した州)における自由黒人に対して提議された議論は4つの主要な範疇に分けることができる。1つは黒人の道徳的だらしなさと考えられることを指摘するものだった。当時の白人至上主義者達は、黒人がその野蛮で拘束されないやり方に白人を引きずり込む勝手気儘な存在だと主張した。この人種間の混合の怖れは強く、黒人排除の叫びの大半を占めた。 これと同じような見方で、黒人は犯罪を増やすものだと非難され、真っ直ぐで狭い道筋から逸れる傾向があると考えられた。またアフリカ系アメリカ人が精神的に劣っていることから市民としての義務に適合できず、真の改善も出来ないと主張する者もいた。経済的な配慮も進んだ。自由黒人は白人から仕事を奪うだけだと考えられた。この感覚は特に北部の「労働者階級」の中で強かった。 南部人は自由黒人について特別の感情があった。奴隷制度の残る地域にいる解放奴隷はまだ奴隷である者達に自由とは何を意味するかを思い出させ、逃亡や奴隷の反乱を奨励したりすると恐れられた。 南部の植民推進者は人種差別主義と奴隷蜂起の怖れで動機付けられたのに対し、北部の植民推進者は白人と黒人が共存するという考え方の受け入れを拒んだ。その提案した解決策は「植民地化」と婉曲的に呼称されるやり方でアメリカ合衆国からアフリカへこの階級の人々を移送させることだった。
※この「自由黒人に関する「問題」解決策としての植民地化」の解説は、「アメリカ植民地協会」の解説の一部です。
「自由黒人に関する「問題」解決策としての植民地化」を含む「アメリカ植民地協会」の記事については、「アメリカ植民地協会」の概要を参照ください。
- 自由黒人に関する「問題」解決策としての植民地化のページへのリンク