自然保護活動について
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この地が全国に有名になったのは、自然保護活動が注目されたからである。 この岬を高級別荘地として開発する計画が発覚したのは、昭和49年(1974年)1月のことで、三つの不動産業者が県に申請を出したことが分かった。これに反対の声を上げたのが、当時田辺商業高校教諭であった外山八郎(とやまはちろう)である。彼は生物学関係の教師や地方紙の社長等と相談した上、反対運動を立ち上げる。2月に「天神崎の自然を大切にする会」(以下、「大切にする会」と略称)が発足、署名運動を開始、県知事に陳情。これを受けて業者側は計画を大きく縮小し、再申請、県と市もこれを受け入れる姿勢を見せる。 「大切にする会」はこれに対し、反対運動を続けることを決定、運動経費の為に募金活動も始める。1977年、県は要求に対し「開発を阻止したいのならあなた方が買い取るしかない」と通告、それを受け外山らは買取を決意するが募金活動は遅遅としてはかどらなかった。そのあいだ開発の一時停止で業者側は資金繰りに苦しむことになる。1978年ようやく「大切にする会」は、その所有地の一部を買い取ることを決断する(第一次買い取り)。なお、この会がナショナル・トラストという運動のあり方を知ったのはその後である由。1978年に銀行などからの借金で第二次買い取りを行う。財団法人「日本自然保護協会」がバックアップし、会内部に「天神崎委員会」を作り、借金返済のための全国募金の窓口とするが、募金は一向に集まらず会合や催しなどで経費ばかりが増えていき銀行への返済もままならぬ状態に陥った、そんな委員会に救いの手を差し伸べたのは行政である。県から資金援助を受けた田辺市が第一次、第二次買い取りで手に入れた土地を買い取り事なきを得 運動を継続することが出来た。1985年に最後まで残っていた土地を買い取りが終る事となる。外山は今までの運動に対し「10年間も待ってくれた業者や関係者の温かい心こそ、天神崎ナショナル・トラスト運動を実らせた陰の力だと感謝している」と感謝の言葉を述べている 当時、各地で同様な取り組みが始まっていたことから、政府内部でも検討が行われた結果、ナショナル・トラスト法が制定され、「大切にする会」は1987年に自然環境保全法人(ナショナル・トラスト法人)の第一号に認定される(ただしここが日本で最初にナショナル・トラスト運動を行ったわけではない)。1988にはナショナル・トラスト第一回全国大会がこの地で開催された。 現在も「大切にする会」を中心として買い取りの進行、観察会等を通しての一般への啓蒙活動などが行われ、関西各地の学校が観察に訪れている。
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