自傷と自殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 09:25 UTC 版)
やがて、デッドを取り巻く社会情勢と彼自身の死への魅了は、彼の精神状態を大幅に悪化させていった。彼は、ステージ上でしばしば、ナイフや割れた瓶で自傷行為を行おうとするまでになった。しかし、友人といても自傷行為を行おうとするので、彼らは彼を抑止し、鎮めようとしなければならなかった。それは、友人の多くを心配させたが、ユーロニモスはデッドの自殺傾向に魅了された‐うわべは それがメイヘムのイメージに合うため ‐。そして、デッドの友人によると、ユーロニモスはしばしばデッドに自殺を勧めていたという。マンハイムは、「オーシェト[ユーロニモス]が純粋な悪からそうしたのか、それともただ弄んでいたのか、俺には分からない」と語っている。 1991年には、デッドとユーロニモスは、ノルウェーのクロクスタ近郊の森の中の一軒家で共同生活をしていた。その一軒家はバンドのリハーサルにも使われる場所だった。メイヘムのベーシスト、ネクロブッチャーは彼らと少しの間住んだ後に語ったところによると、デッドとユーロニモスは"互いの神経にとても障っていた"という。1991年初頭、バーズムのヴァルグ・ヴィーケネスが、デッドの所持するショットガンの弾丸数発をデッドに送った。1991年4月8日、デッドが家に一人で残っていた間に、彼はナイフで手首と首を切り裂き、それから頭をショットガンで撃ち抜き、自殺を遂げた。彼は短い遺書を残しており、それには室内で銃を使うことへの謝罪が書かれており、"Excuse all the blood"と〆られていた。 遺体はユーロニモスによって発見された。ドアに鍵が掛かっており、家の鍵が無かったため、彼は開いている窓に登って家に入った。彼はデッドの遺体を見つけるとすぐにカメラを持ち、遺体の写真を撮った。それらは、後述するように後に商品に用いられることとなる。伝えられるところでは、彼はデッドの割れた頭蓋骨の欠片を採取したという。ユーロニモスがこのような行動をとった動機は不明であるが、ネクロブッチャーは、写真を撮ることや他人にそれらを見せようとすることは、友人の死を見てしまったことの衝撃への対処ではないかと推測している。ヘルハマーが写真を現像した後、ユーロニモスは最初その写真を破棄することを約束したが、結局破棄することは無かった。ユーロニモスは、自身のレコードショップ、ヘルヴェテで封筒に入れて、写真を保管していた。伝えられるところによれば、ユーロニモスは、写真のうち1枚をコロンビアのウォーマスター・レコードのオーナーに送っていた。そして、1995年にリリースされた、メイヘムのブートレグライヴアルバム、『Dawn of the Black Hearts』のディスクジャケットにその写真が用いられた。そのジャケットは、Gigwise.comの"The 50 Most Controversial Album Covers Of All Time"で1位にランクされている。 この自殺は、ユーロニモスと彼の友人たちの間の亀裂の原因となった。彼らは、自殺前のデッドに向かってのユーロニモスの態度に嫌気がさしていた。特に、デッドと親しかったネクロブッチャーは、デッドの自殺を機にユーロニモスとの友人関係を断絶し、メイヘムを脱退している。マンハイムは後に、ユーロニモスはデッドに自殺するチャンスを与えるために、故意にデッド一人を家に残すようにしたのではないかと推測している。デッドの自殺は、ブラックメタルシーンの"思想の変化"を引き起こすといわれ、メイヘムのメンバーによって行われる悪名高い行為の序章であった。 スウェーデンの新聞での死亡記事によると、デッドの葬儀はスウェーデン・ストックホルム県ハーニンゲ市の東ハーニンゲ教会 (Österhaninge kyrka)で1991年4月26日、金曜日、朝10時から開かれ、遺体は東ハーニンゲ墓地 (Österhaninge kyrkogård)に埋葬された。
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