背番号候補
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/13 02:35 UTC 版)
1963年の第30回衆議院議員総選挙においては、直近の千葉県知事選挙と東京都知事選挙に関する刑事事件で肥後本人が公民権停止中であったため、「肥後亨事務所」(選挙期間中に「背番号肥後亨事務所」と改称し、更に「肥後亨事務所」に戻している)なる確認団体を立ち上げ、東京都全区に26名と、旧千葉1区に後述する1名の、計27名の公認候補を擁立した。これらの候補は一郎、二郎、三郎・・・二六、二七と、背番号の通称を語り、例によってほとんど選挙運動を行わなかった。 「背番号候補」の中には高田がん夫妻(高田十二、高田十八)のみならず、高橋十郎(堀井輝雄。不動信用金庫理事)や、島崎十三(島崎敏彦、島崎正昭とも。詐欺等で逮捕歴当時12回)らも含まれ、10番台以降は「十一」(といち)等、固有の呼称が与えられていた。また川島正次郎(旧千葉1区=当時、自民党)を揶揄する目的で、川島と同じ旧千葉1区から古参メンバーの阿部忠夫を「おとぼけ正治郎」名義で擁立せんとしたが、通称使用願を却下され、結局「阿部十七」として立候補している。更に、公示後「知らぬうちに候補者にされていた」と肥後を告発する者まで現われた。 当該選挙には肥後グループみならず、「防共挺身隊」(福田進、中堂利夫)や、「議会主義政治擁護国民同盟」(清水亘、杉本一夫、有田正憲、小田俊与、深作清次郎、南俊夫、山陰探月、別城遺一)等、複数の右翼団体が東京都の各選挙区に公認候補を多数擁立し、従来の革新陣営に対する選挙妨害だけにとどまらず、自民党内部の政争の具としても蠢動したことから、徒党を組んで跋扈するこの種の右翼系「泡沫候補」に対する厳しい世論が高まった。 この背番号候補事件と前後して、川島が秘書の松崎長作を介して肥後一派に反共活動資金を提供し、暴れさせていた事実が露見し、黒い関係が衆参両院の予算委員会、法務委員会、本会議でも追及された。 後ろ盾を失った肥後は、選挙用証紙の偽造、選挙ハガキや証票・証紙類の転売による詐欺罪、恐喝罪等で再摘発され、東京拘置所に収監中の1964年3月8日、37歳の若さで高血圧性脳出血により急逝した。捜査が政界要人へと迫る直前の肥後の突然の獄死に関しては、国会でも疑義が呈されている。
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