背番号の遍歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 17:15 UTC 版)
森野は入団から引退まで21年間、中日一筋だったものの、背番号を7回変更し、合計6つもの番号を背負った選手である(その後、コーチとしても2つの背番号を背負っている)。入団直後は「56」を与えられたものの、その直後当時の監督の星野仙一の意向より、高卒ドラフト2位入団ながら「7」に変更された。1999年のシーズン途中に李鍾範の希望で、自身と李の番号を入れ替え、「8」に変更。2001年のシーズン途中、トレードで加入した波留敏夫に「8」を着けさせたい球団の意向から、トレードで移籍した山田博士の「16」に変更。その後、2004年の落合博満監督就任時、「16は投手がつける番号」との意向から、波留の退団後に着けていた森岡良介を「45」に変更させたうえで自身は「8」に再び変更。2006年は、ドラフト1位で入団した平田良介に「8」を着けさせたい球団の意向から、当時の空き番号から幼少期に憧れていた掛布雅之(阪神)と同じ「31」に変更。2009年オフに落合監督から、引退した立浪和義の「3」への変更を指示されるも「荷が重い」として固辞したが、その時すでに中川裕貴が「31」を着けることが決まっていたため、「30」に変更。2014年には原点に立ち返りたいという森野自身の意向から、山﨑武司が引退して空いた「7」に再び変更した。なお、本人のお気に入りの番号は「16」で、思い入れのある番号は「31」。
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