森岡良介とは? わかりやすく解説

森岡良介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/02 07:46 UTC 版)

森岡 良介
東北楽天ゴールデンイーグルス 一軍打撃兼野手コーチ補佐 #95
ヤクルト戸田球場にて(2019年6月8日)
基本情報
国籍 日本
出身地 大阪府大阪市城東区
生年月日 (1984-07-15) 1984年7月15日(40歳)
身長
体重
174 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 内野手
プロ入り 2002年 ドラフト1巡目
初出場 2003年8月6日
最終出場 2016年9月28日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

森岡 良介(もりおか りょうすけ、1984年7月15日 - )は、大阪府[1]大阪市城東区出身(長崎県佐世保市生まれ)の元プロ野球選手内野手)。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスで一軍打撃兼野手コーチ補佐を務める[2]

経歴

プロ入り前

1998年、中学2年の夏に甲子園球場明徳義塾vs横浜をスタンド観戦。高知の強豪・明徳義塾の戦いぶりに感銘をうけ「このチームで甲子園に行きたい」と決意し、入学した。入学後は1年生よりレギュラーで甲子園に4度出場、出場した全13試合で安打を記録した。

主将として「3番・遊撃手」で出場した第84回全国高等学校野球選手権大会で、明徳義塾の初優勝に貢献。決勝戦ではリードしたまま最終回を迎え、二死になった所で感極まって試合中にもかかわらず号泣したが、この光景が映像として残存しており、この年の熱闘甲子園のラストに使用された。春の甲子園では、中日ドラゴンズでチームメイトとなる吉見一起と初戦で対戦した。

2002年のドラフト中日ドラゴンズから1巡目指名されて入団。背番号は8[3]。シュアな打撃と華麗な遊撃の守備から「立浪2世」と称され、大いに期待された[4]

中日時代

中日選手時代
(2008年6月26日、阪神鳴尾浜球場)

2003年8月6日の対広島戦で代打出場し、プロ初打席に左越えの二塁打を放った。8月7日には「8番・遊撃手」で初スタメンも経験した。オフに背番号を45に変更した[3]

2004年は、フレッシュオールスターゲーム出場、ファーム日本選手権制覇に貢献した。

2006年は、5月から6月に、正二塁手だった荒木雅博の故障中にスタメンで出場し、無失策だった。

2007年4月22日、東京ヤクルトスワローズとの試合で代打出場し、館山昌平からプロ初本塁打を放った。4月24日の対広島戦に代走として出場した際、エンドランを阻止されタイミングは完全にアウトだったにもかかわらず、スライディングにブレーキをかけて松本高明の足狙いのタッチを避け、松本がもたつく間に松本のグラブをまたいでベースを踏みセーフになるという前代未聞のプレーになった。本人は「タイミングを見計らって、意図して急ブレーキをかけた」と語っている。ウエスタン・リーグでは打率.316・6本塁打・42打点で、三部門でチームトップの成績を残し、最高出塁率のタイトルも獲得したが、岩﨑達郎らの台頭もあって徐々に出場機会が減少した。

2008年4月23日の対福岡ソフトバンクホークス二軍戦で、4回裏無死満塁のチャンスで三振に倒れて、ベンチに戻ってきた堂上剛裕を二軍打撃コーチの高柳秀樹が激しく叱責。ベンチにいた森岡は高柳に抗議し、一触即発の状態となった。翌日の24日の練習前のミーティングで、二軍監督の辻発彦は高柳の発言を擁護し、逆に森岡に非難する発言をし、森岡に1週間の謹慎処分が課された。その後、二軍で主軸を張り、一軍では5試合に出場したものの、首脳陣との確執は最後まで続き、この事件が要因となり、オフに戦力外通告を受けた。12月2日に自由契約公示された。

ヤクルト時代

東京ヤクルト選手時代
(2011年10月15日、横浜スタジアム

1回目の12球団合同トライアウトを受験し、ヤクルトが獲得を発表(同年トライアウト合格者第1号)。12月4日に福岡ソフトバンクホークスから移籍した吉本亮オリックス・バファローズから育成選手で契約した田中祐貴とともに入団発表を行い、背番号は68に決まった[5]

2009年、内野の3ポジションを守れる器用さが認められ、7年目にして初の開幕一軍入りを果たした。9月8日には第1打席で移籍後初本塁打を放った。10月9日の対阪神戦で中盤から二塁手として出場すると、鳥谷敬の痛烈な安打を全身で止めて内野安打に抑え、二塁走者の生還を防ぎ、その後の得点を防いだ。このプレーについて後日、宮本慎也は「あの守備が非常に大きかった。あそこが抜けていたら(あの試合は)負けていたかもしれない(2009年ファン感謝デーより)」と話しており、チームの3位争いにとって非常に大きな好守備となった。

2010年は、なかなか一軍での出場機会はなかったが、イースタン・リーグでは首位打者を獲得。守備率もトップであった。シーズン終盤、二軍での成績が認められ一軍に昇格。打率3割ちょうどの田中浩康に代わり先発出場した。

2011年には、5月26日のオリックス・バファローズ戦で初のヒーローインタビューも経験した。川端慎吾川島慶三荒木貴裕と遊撃手のレギュラー・控えが次々と離脱したため、10月29日からの読売ジャイアンツとのクライマックスシリーズ・ファーストステージでは全3戦に先発出場。3戦全てで安打を打ち、特に第3戦では7回裏に貴重な追加点となる適時打を放つなど、見事に穴を埋めて見せた。試合後にはお立ち台に上がったが、「9年目の森岡ですけど、お立ち台、2回目で~す!」「(適時打を打った瞬間は)おしっこ漏れそうでした~!」と絶叫、満員の神宮球場のファンを沸かせた。このシーズンは自己最多となる52試合に出場し、安打数も自己最多の22本を記録した。

2012年シーズンはプロ入り後初めて100試合出場。内野の3ポジションを守り、自己最多の61安打を記録した。

2013年シーズンは自己最多の109試合出場、73安打を記録した。オフに背番号を10に変更した[6]

2014年シーズンよりヤクルトの選手会長に就任する[7]。オープン戦では振るわず開幕スタメンは新人の西浦直亨に譲ったものの、シーズンに入ると一転して打撃好調で、4月11日の横浜DeNAベイスターズ戦で右脇腹の肉離れを発症し離脱した[8]時点では打数は少ないながらも5割超の打率を残していた。復帰後も主に対右投手の際にスタメン起用され安打を量産、一時はクリーンナップに座ることもあった。夏場以降は打撃の調子を落としたが、自己最高となる打率.276を記録した。

2015年大引啓次の加入と自身の打撃不振が重なり、75試合出場、打率.188と大幅に成績を落とした。オフに選手会長のポストを川端慎吾に譲る[9]

2016年は、3月5日に古巣・中日とのオープン戦で、「1番・三塁手」として先発出場。前年に引退した山本昌の引退登板の最後の打者を務めた。しかし公式戦に入ると打率.065と大不振で、9月26日に同年限りでの引退を発表。本拠地最終戦となる9月28日のDeNA戦が森岡の引退試合となり、6回に石川雅規の代打で出場。大歓声の中、初球を打って二塁ゴロとなり、現役最後の打席を終えた[10][11]。引退理由の1つとしてイップスを発症したことを明かしている[12]

現役引退後

2017年から一軍野手コーチ補佐への就任が発表された。背番号は75[13]。11月25日から台湾で開催された2017アジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBイースタン選抜の内野守備走塁コーチを務めた[14]

2018年シーズンから2019年シーズンまでは二軍内野守備走塁コーチを務めた。2020年シーズンからは一軍内野守備走塁コーチに配置転換された。2024年契約満了でコーチ契約が終了したことが発表された[15]

2025年シーズンからは東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍打撃兼野手コーチ補佐を務める。背番号は95[2]。監督の三木肇は、森岡のヤクルトの現役選手の時、コーチとして同僚だった時期がある[16]

選手としての特徴・人物

勝負強い打撃と二遊間を中心に内野全ポジションをこなすユーティリティー性が武器[17][18]。ヤクルト時代は先発、代打、内野の守備固めをこなすバイプレーヤーとして活躍[19][20]。また、2015年には選手会長としてチームのリーグ優勝に貢献した[1]

愛称は「モリスケ[21]

明るい性格と抜群のリーダーシップで同僚からの信頼も厚く、ファンからも愛されている[1]つば九郎によると、いつも大声を出してベンチを鼓舞しているという[22]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
2003 中日 3 7 7 1 2 1 0 0 3 0 0 1 0 0 0 0 0 4 0 .286 .286 .429 .714
2004 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
2005 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
2006 17 31 26 5 5 1 0 0 6 1 0 0 3 0 2 1 0 6 0 .192 .250 .231 .481
2007 11 11 9 2 1 0 0 1 4 1 1 0 1 0 1 0 0 3 1 .111 .200 .444 .644
2008 5 5 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 .000 .200 .000 .200
2009 ヤクルト 35 47 43 3 9 1 0 1 13 2 0 0 1 0 2 0 1 14 3 .209 .261 .302 .563
2010 21 56 43 6 11 3 0 0 14 5 0 0 8 0 4 0 1 8 0 .256 .333 .326 .659
2011 52 97 86 6 22 2 0 0 24 6 0 0 2 0 8 0 1 20 1 .256 .326 .279 .605
2012 100 282 245 19 61 8 3 1 78 18 1 1 19 2 11 0 5 44 1 .249 .293 .318 .611
2013 109 347 295 28 73 10 1 1 88 21 0 0 11 2 36 1 3 61 5 .247 .333 .298 .632
2014 100 326 301 26 83 16 2 2 109 31 1 0 5 2 15 0 3 39 7 .276 .315 .362 .677
2015 75 125 112 10 21 2 1 1 28 9 1 1 3 1 8 0 1 22 6 .188 .246 .250 .496
2016 26 33 31 1 2 1 0 0 3 3 0 0 0 1 1 0 0 8 2 .065 .091 .097 .188
通算:14年 557 1369 1204 107 290 45 7 7 370 97 4 3 53 8 89 2 15 229 26 .241 .299 .307 .606

年度別守備成績



遊撃 二塁 三塁 一塁
















































2003 中日 2 0 2 0 1.000 1 0 2 0 1.000 - -
2006 - 13 31 24 0 7 1.000 - -
2007 - 1 4 2 0 2 1.000 - -
2009 ヤクルト 5 8 11 0 3 1.000 13 13 20 2 4 .943 6 0 1 0 0 1.000 -
2010 12 15 20 1 5 .972 3 3 12 0 0 1.000 2 0 3 0 0 1.000 -
2011 20 22 36 0 6 1.000 4 5 11 0 2 1.000 15 4 2 1 0 .857 -
2012 69 91 170 2 36 .992 9 7 18 0 0 1.000 20 7 16 0 1 1.000 -
2013 86 110 196 8 36 .975 12 15 16 1 2 .969 12 3 5 0 0 1.000 -
2014 86 92 192 10 37 .966 - 14 7 10 1 3 .944 -
2015 22 23 37 3 12 .952 - 4 0 1 0 0 1.000 1 1 0 0 0 1.000
2016 - - - 5 25 4 0 2 1.000
通算 302 361 664 24 135 .977 56 78 105 3 17 .984 73 21 38 2 4 .967 6 26 4 0 2 1.000

記録

初記録

背番号

  • 8(2003年[3]
  • 45(2004年[3] - 2008年)
  • 68(2009年[5] - 2013年)
  • 10(2014年[6] - 2016年)
  • 75(2017年[13] - 2024年)
  • 95(2025年[2] - )

脚注

出典

  1. ^ a b c 森岡良介 | 選手」『週刊ベースボールONLINE』。2021年4月8日閲覧
  2. ^ a b c 2025コーチングスタッフに関して」『東北楽天ゴールデンイーグルス』2024年10月30日。2025年2月12日閲覧
  3. ^ a b c d 中日ドラゴンズ 公式サイト - 歴代背番号”. dragons.jp. 2025年2月22日閲覧。
  4. ^ 【決断】ヤクルト森岡 引退の理由 夏の終わりに突然…」『スポニチ Sponichi Annex』2016年12月4日。2024年2月20日閲覧
  5. ^ a b ヤクルト背番号一覧 | 東京ヤクルトスワローズ”. www.yakult-swallows.co.jp. 2025年2月22日閲覧。
  6. ^ a b ヤクルト背番号一覧 | 東京ヤクルトスワローズ”. www.yakult-swallows.co.jp. 2025年2月22日閲覧。
  7. ^ ヤクルトの次期選手会長に森岡」『デイリースポーツ』2013年11月23日。2013年11月23日閲覧
  8. ^ ヤクルト・森岡は右脇腹肉離れ、抹消 全治3、4週間」『スポーツニッポン』2014年4月12日。2021年8月12日閲覧
  9. ^ ヤクルト・川端が大型契約、1億6000万円×4年」『サンケイスポーツ』2015年12月14日。2021年8月12日閲覧
  10. ^ 燕・森岡、涙で現役に別れ…志願の代打出場「迷惑かけずに終わりたかった」」『サンケイスポーツ』2016年9月29日。2021年4月8日閲覧
  11. ^ 引退のヤクルト・森岡良介に聞く、これからのこと 「もっともっと人として成長していけるように」」『週刊ベースボールONLINE』2016年11月1日。2021年4月8日閲覧
  12. ^ 【決断】ヤクルト森岡 引退の理由 夏の終わりに突然…」『スポーツニッポン』2016年12月4日。2025年2月13日閲覧
  13. ^ a b 2017年コーチングスタッフについて」『東京ヤクルトスワローズ』2016年10月31日。2025年2月13日閲覧
  14. ^ 2017アジアウインターベースボールリーグ(AWB)NPBメンバー一覧」『NPB.jp 日本野球機構』2017年11月17日。2017年11月21日閲覧
  15. ^ コーチ契約について」『東京ヤクルトスワローズ』2024年10月11日。2024年10月13日閲覧
  16. ^ 2025プロ野球カラー選手名鑑号 週刊ベースボール 2025年 2/21号増刊、124-125頁、ベースボール・マガジン社
  17. ^ サブプレーヤーからの脱却を目指す」『週刊ベースボールONLINE』2012年10月24日。2023年4月1日閲覧
  18. ^ 引退のヤクルト・森岡良介に聞く、これからのこと 「もっともっと人として成長していけるように」」『週刊ベースボールONLINE』2016年11月1日。2023年4月1日閲覧
  19. ^ ヤクルト山中、年俸倍増でも背番号は変えない「68番を良い番号と言われるように」(菊田康彦) - エキスパート」『Yahoo!ニュース』2016年12月9日。2023年10月11日閲覧
  20. ^ チームの主砲も多数輩出。過去11年の二軍打撃タイトル獲得者と、その現在地」『パ・リーグ.com』2020年1月17日。2023年10月11日閲覧
  21. ^ 引退を表明したヤクルト・森岡「ネクストステージでもハッスルします!」」『BASEBALL KING』2016年9月27日。2021年8月20日閲覧
  22. ^ 【ヤクルト】塩見泰隆は「てんねんたいちょう」川端慎吾「ナイスなパパ」つば九郎、燕軍団の秘話暴露パート2」『スポーツ報知』2021年11月29日。2021年12月20日閲覧

関連項目

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