背美流れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 09:23 UTC 版)
1878年暮れ、太地(和歌山県)で鯨を捕って生計を立てていた漁師たちが、その時に紀州を襲った猛烈な嵐により、100名以上が遭難し死亡した記録が残っている。背景は、西洋列強がクジラを捕りすぎたために沿岸の漁業しかできない太地ではクジラが取れなくなり漁師が困窮し、たまたま発見したセミクジラを荒れた海の中でさえ、捕りに行ったためである。 しかし近年、下記の通り沿岸捕鯨で個体群の著しい減少と過剰捕獲による採算が取れなくなった可能性が指摘されている。太地組終焉の原因が背美流れにあったという意見に対する相反(内外の組織間とくに重鎮一族における確執、近隣猟場の買い取りや北海道への進出の失敗後の再進出など事業の無計画性、「重鎮の放蕩」といった噂の流出など、が鯨組の経営・財政難を招いたとする事態に対して何らかの意図があって創られた説話)や「背美流れ」の唄および子持ちの殺生の戒め等々が事件後に作られた創作であったとする意見も存在する[要ページ番号]。
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