背景とCOPWE設立とは? わかりやすく解説

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背景とCOPWE設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 14:51 UTC 版)

エチオピア労働者党」の記事における「背景とCOPWE設立」の解説

ハイレ・セラシエ1世廃位され1974年クーデターで、軍部率いメンギスツ・ハイレ・マリアム実権握ったことを受け、最有力援助国だったソビエト連邦徐々に共産主義前衛政党設立による文民統治復活圧力をかけ始めた当初はそうした圧力拒否していたメンギスツだが、1970年代後半反政府武装勢力活動活発化したことを受け、全ての国民統制する能力持った政党設立必要性迫られた。そして1979年12月メンギスツエチオピア労働者党設立準備委員会(COPWE)の設置宣言した。 COPWEの設置を受け、革命的エチオピア青年協会などの大衆機構組織された。これらは各階級の広範な利益代表し、また派閥主義根絶することで、国家全体統括する統一政党設立容易にすることを目的としていた。こうした組織設置は、エチオピア国民政治意識議会においてのみでなく職場教育機関内でも高めさせる効果があった。よって多様な大衆機構への加入は、国家によって強く推奨されることとなった。 COPWEはエチオピア労働者党設立までに委員会3度招集し大衆機構設立より政府に多様性持たせることに努めた。だが1980年第1回委員会では、委員3分の1以上が軍人か、もしくは首都であるアディスアベバの代表で占められた。その中ではまず、COPWE中央委員会と書記局の構成員発表された。書記局中央委員会での議事管理する要部局で、その多く文民共産主義者によって占められていたが、常に軍事政権監視受けていた。また書記局地域支部陸軍将校によって調整され書記局中央指導部補佐としての役割果たした。そして1981年執行委員会新設され地方の代表を受け入れようになったことで、COPWEは更に強大な機構となっていった。 1983年までに、COPWEは約5万メンバーと約6千5百の組織細胞抱えようになった。だがメンギスツがCOPWE成立初期出したイデオロギー的な純正さ共産主義への傾倒求め声明にもかかわらず共産主義イデオロギー形骸化していった。政敵追い落とし軍事独裁政権への忠誠を誓うことが、マルクス・レーニン主義堅持よりも重要であると見なすCOPWEメンバー増えたのであるこの頃には、軍人治安部隊員がCOPWE中央委員会多数派となっていた。

※この「背景とCOPWE設立」の解説は、「エチオピア労働者党」の解説の一部です。
「背景とCOPWE設立」を含む「エチオピア労働者党」の記事については、「エチオピア労働者党」の概要を参照ください。

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