聖槍の発見とは? わかりやすく解説

聖槍の発見

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:13 UTC 版)

アンティオキア攻囲戦」の記事における「聖槍の発見」の解説

そのころ包囲されアンティオキアでは、6月10日一行中にいたペトルス・バルトロメオという貧し修道士諸侯らの前に進み出た。彼は聖アンデレ幻視し、「この市内聖槍がある」という言葉受け取った、と主張した飢え十字軍一行中には聖人幻視したり幻覚見たりする者も多くヴァランスステファヌスという修道士イエス・キリスト聖母マリア幻視したと報告した6月14日には流星敵陣のほうに落ちるのが見え吉兆解釈された。 教皇使節アデマール聖槍幻視などには懐疑的で、特に聖槍コンスタンティノープル見たばかりだったのでアンティオキアで見つかるなど笑止千万考えた。しかしレーモンペトルス・バルトロメオ言葉信じたレーモンをはじめ、年代記作者レーモン・ダジール(Raymond of Aguilers)、オランジェ司教ギヨームWilliam, Bishop of Orange)らは6月15日から市内聖ペテロ聖堂地下掘り始めた。何も見つからず徒労かと思われそのときペトルス・バルトロメオは自ら穴の中に入り、底に降り立つと、土の中から先を取り出して見せたレーモンはこれを聖槍だと信じ、この事態聖遺物発見されたのは、降伏するよりも包囲生き延びて最後の戦い備えよという神のしるしに違いない考えたペトルス・バルトロメオはさらに別の幻視見た報告した。それは聖アンドレ十字軍5日間の断食を行うことを指示し(もっとも、断食をしなくてももう食べるものはないのだが)、そうすれば十字軍大勝利収めるだろう、という内容だった。ボエモン聖槍発見には懐疑的だったが、その発見知らせ十字軍将兵士気高めたことは疑いようが無かったケルボガ宿営放ったスパイからは、陣営内では言い争い絶えないという報告もあった。リドワーンドゥカークといったシリア領主たちには、モースルから来たケルボガが、戦い勝った後でシリアでの権利より一層主張してくるのではないかとの疑念があった。シリア領主たちにとってケルボガは、得体の知れない西洋人侵略者とは違い、より現実的な脅威であった6月27日隠者ピエールボエモン使者としてケルボガ陣営赴いた。しかし交渉成果無く終わりセルジューク軍との戦いはもはや避けがたいものと感じられた。ボエモン十字軍6つ分隊分けた。彼はそのうち1つ直接指揮し、残る5つは、ユーグ・ド・ヴェルマンドワフランドル伯ロベール分隊ゴドフロワ・ド・ブイヨン分隊ノルマンディー公ロベール分隊タンクレードおよびベアルン子爵ガストン分隊教皇使節ル・ピュイアデマール分隊であった。そのころ病気倒れていたレーモン200人ほどの兵士と共に市内残り山頂城塞対す守備を行うことにした。山頂城塞は、シャムス・アッ=ダウラから、ケルボガ派遣した武将アフメド・イブン・メルワーン(Ahmed Ibn Merwan)へと引き渡されていた。

※この「聖槍の発見」の解説は、「アンティオキア攻囲戦」の解説の一部です。
「聖槍の発見」を含む「アンティオキア攻囲戦」の記事については、「アンティオキア攻囲戦」の概要を参照ください。

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