考案後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 00:23 UTC 版)
青色のアスタラーダが初めて使用されたのは、1918年のカタルーニャ国民の日(ディアーダ)に向けたパンフレットであるとされる。ビセンク・アルベルト・バリャステル・イ・カンプス(スペイン語版)がデザインしたのではないかとされている。アスタラーダが登場する最初の写真は1918年に公表され、その写真では若いアメリカ人たちとカタルーニャ分離主義者のグループが双方の旗を手にしていた。 ミゲル・プリモ・デ・リベラによるクーデターが起こる前、1920年代に過激な分離主義者が発行していた『La Tralla』誌(鞭打ち)の最終号にはアスタラーダが使用された。また、カタルーニャ代表委員会によってカタルーニャ語とアラビア語で書かれた出版物には、スペインに対して反乱を起こしたモロッコ人指導者への挨拶や激励のためにアスタラーダが使用された。キューバにおいては、1920年に『La Nova Catalunya』誌(新カタルーニャ)の題字として初めてアスタラーダが登場し、カタルーニャ分離主義者による他の出版物にも取り入れられた。 1926年のプラッツ・ダ・ムリョー(英語版)への侵攻(結局失敗)の際、後にカタルーニャ政府首相となるフランセスク・マシアー(英語版)はアスタラーダを振った。カタルーニャ人志願兵が投獄され、パリに移送されて裁判にかけられる間にも、この旗が登場した。カタルーニャ分離主義者の制憲議会によって、1928年にはキューバでカタルーニャ共和国の暫定憲法が書かれて承認された。暫定憲法の第3条にはカタルーニャ共和国の公式旗として、黄色地に4本の赤線、青色の三角形の中に白色の五芒星を入れたデザインが考案された。 1931年から1936年のスペイン第二共和政下でもアスタラーダは頻繁に登場した。しばしば資金不足のために3色ではなく2色の旗が使用されたが、青色の三角形に白星を持つ伝統的なアスタラーダは維持された。1930年代以降のカタルーニャ独立主義者の葬式では、アスタラーダの青い三角形部分以外を黒布で覆う伝統が始まった。
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