考案者とエノキタケの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 05:57 UTC 版)
「えのき氷」の記事における「考案者とエノキタケの出会い」の解説
えのき氷の発案者、阿藤博文は1947年長野県中野市に生まれた。この地域は、もともと行李(旅行の荷物入れなどに用いるカゴ)の材料となるコリヤナギの産地だった。阿藤の地元では、新しいことに挑戦しようという気風があり、プラスチックの普及で行李の生産は縮小していくことを見据え、農家たちはコリヤナギから当時研究途上だったきのこの栽培に切り替えはじめていた。 リンゴ、モモなどの果樹栽培を営んでいた阿藤家も、やがて他の地元民と同じくきのこ栽培を開始することになった。工業高校を卒業して会社員として就職した阿藤は、農業収入が会社員の初任給を上回ることを知ったことで、半年余りで会社員を辞め、実家の家業を引き継ぐことにした。そのとき阿藤は18歳だった。 当時はエノキダケの施設栽培は始まったばかりであり、施設内の温度管理は寒冷期に練炭を焚く程度で、自然栽培と同様、秋から冬にかけて栽培して、夏に収穫していた。20歳になった阿藤は、新しいことに挑戦したいと考え、22人の有志で結成されたきのこの冷房栽培研究会に加わった。当時最年少だった。 阿藤は試行錯誤を重ね、37歳のときにエノキダケの栽培工場を設立した。これまで手作業だった植菌、菌掻き、瓶詰めといった工程をすべて自動化し、家族経営だった事業を雇用に切り替えたことにより、生産能力は6倍まで向上した。
※この「考案者とエノキタケの出会い」の解説は、「えのき氷」の解説の一部です。
「考案者とエノキタケの出会い」を含む「えのき氷」の記事については、「えのき氷」の概要を参照ください。
- 考案者とエノキタケの出会いのページへのリンク