縄文衣服としてのアンギン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 18:57 UTC 版)
日本人が衣服を身につけていたことを推測させる最も古い資料は、愛媛県にある縄文時代草創期(紀元前12,000~紀元前10,000年頃)の上黒岩岩陰遺跡から出土した「線刻のある礫石」(国立歴史民俗博物館蔵)である。長さが約4.5センチメートルのこの礫石には、半分に乳房のような線が描かれ、残り半分に草を編んだスカートのようなものを想起させる線が描かれている。編み物による衣服アンギンが着用されるようになったのは縄文時代早期(紀元前10,000年~紀元前4,000年頃)と推定され、歴史節で述べたように編み物の痕跡が残る土器が出土し、縄文時代前期(紀元前4,000年~紀元前3,000年頃)には麻によるアンギンの切れ端が出土している。 当時の衣服の全体像を、縄文時代中期(紀元前3,000年~紀元前2,000年頃)までの土偶から想像することは困難だが、縄文時代後期(紀元前2,000年~紀元前1,000年頃)から晩期にかけての土偶は多く出土していることから、その意匠から服飾を想像することはできるとする見解もある。尾関清子は著書『縄文の衣』において、縄文の衣服を再現する過程で、模様に関しては土偶を参考にしていると述べている。また、高倉洋彰は、縄文中期の長野県葦原遺跡や晩期の青森県古縣遺跡出土の土偶から、縄文期の編布製の服を、上衣と下衣に別れたタイプと推測している。ただし、縄文時代後期には、編布よりも高度な機織りの技術が伝来し、織物が普及して各地の遺跡から出土していることから、土偶の意匠がアンギンであるとは断定されない。 日本列島における古代の服飾について、やや後の時代になるが3世紀末頃の『魏志倭人伝』では、男子は「横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし(横に長い布をただ巻いて結ぶ)」、女子は「単被の如く、中央をうがち頭を貫きてこれを着る(ワンピースのように、布を筒にして頭の部分に穴を開けて着た。貫頭衣)」であったと伝えている。
※この「縄文衣服としてのアンギン」の解説は、「編布」の解説の一部です。
「縄文衣服としてのアンギン」を含む「編布」の記事については、「編布」の概要を参照ください。
- 縄文衣服としてのアンギンのページへのリンク