縄文稲作の可能性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:35 UTC 版)
日本列島における稲作は弥生時代に始まるというのが近代以降20世紀末まで歴史学の定説だったが、学説としては縄文時代から稲を含む農耕があったとする説が何度か出されてきた。宮城県の枡形囲貝塚の土器の底に籾の圧痕が付いていたことを拠り所にした、1925年の山内清男の論文「石器時代にも稲あり」がその早い例だが、後に本人も縄文時代の稲作には否定的になった。土器に付いた籾の跡は他にも数例ある。1988年には、縄文時代後期から晩期にあたる青森県の風張遺跡で、約2800年前と推定される米粒がみつかった。 縄文稲作の証拠として有力な考古学的証拠は、縄文時代後期(約3500年前)に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内から出たプラント・オパールである。砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の土層から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられるが、土器の年代に対し疑問が出され、多方面からの分析が必要と指摘されている。 しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。米粒は、外から持ち込まれた可能性や、土壌中のプラントオパールには、攪乱による混入の可能性もあるとされる。この様な指摘を受け、2013年にはプラントオパール自体の年代を測定する方法が開発されている。否定的な説をとる場合、確実に稲作がはじまったと言えるのは稲作にともなう農具や水田址が見つかる縄文時代晩期後半以降である。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない。 プラントオパールを縄文稲作の証拠と認める場合、稲作らしい農具や水田を伴わない栽培方法を考えなければならない。具体的には畑で栽培する陸稲である。特に焼畑農業が注目されている。縄文時代晩期の宮崎県桑田遺跡の土壌からはジャポニカ種のプラント・オパールが得られた。現在まで引き継がれる水稲系の温帯ジャポニカではなく、陸稲が多い熱帯ジャポニカが栽培されていた可能性が高いことが指摘されている。 水稲(温帯ジャポニカ)耕作が行われる弥生時代より以前の稲作は、陸稲として長い間栽培されてきたことは宮崎県上ノ原遺跡出土の資料からも類推されていた。栽培穀物は、イネ、オオムギ、アズキ、アワであり、これらの栽培穀物は、後期・末期(炭素年代測定で4000 - 2300年前)に属する。
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