緑山と日本の牙彫の人気の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 02:21 UTC 版)
「安藤緑山」の記事における「緑山と日本の牙彫の人気の推移」の解説
日本において美術工芸品に象牙が使用された古い例は正倉院宝物や中尊寺金色堂などがあるが、牙彫が本格的に始まったのは江戸時代であり、当時大流行した根付や印籠も象牙で作られることがあった。明治期には外貨獲得のため、国策たる殖産興業の一環として日本の工芸品の国際博覧会への出品と輸出が積極的に進められ、牙彫の海外輸出も増加し、職人にとっては「牙彫ブーム」と呼ばれる最盛期が訪れた。一例として1990年に開催されたパリ万博に牙彫出品がされて海外のコレクターに注目された。この時期に牙彫師として活躍した代表的な人物は旭玉山と石川光明である。 しかし、明治末期から大正期にかけて日本の工業化が進行し、細工を否定して精神性や主題を重視する西洋の美術思想が広まると、牙彫などの技巧を凝らした細密彫刻は廃れ、昭和期には細密彫刻に対する批判的な見方が広まった。このような時代背景の中、緑山は牙彫分野の彫刻家として活動した。東京文化財研究所が刊行する『日本美術年鑑』の「美術界年史(彙報)」に、明治期に牙彫が海外でコレクターに人気だったことを伝える記録があるが、同年史の平成2年(1990年)8月の「相次ぐ日本美術品里帰り展」と題された記事では、当時東京都美術館で開催された「大英博物館秘蔵・江戸美術展」が紹介され、「工芸分野で牙彫や根付など国内では珍しい作品が展示され……日本美術に対する国内外の見方の相違を明らかにする展観」と、平成最初期においても牙彫作品は日本国内よりも海外での認知と評価が高かったことが記されている。 平成後期の21世紀に入り明治工芸の認知と人気が高まり、清水三年坂美術館の開館や、各地での展覧会の開催や、相次ぐ出版物の発行などで「超絶工芸」として持て囃される様になると緑山の再評価が進み、作品が各地の展覧会に出展されたり出版物やテレビ番組で紹介されるようになった。
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