結成から1990年代まで
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「マリア観音 (バンド)」の記事における「結成から1990年代まで」の解説
1987年、木幡東介(ヴォーカル)、松居徹(ギター)、平野勇(ドラム)、安藤千裕(ベース)により、「日本人による日本語の日本式ハードコアロックバンド」としてマリア観音は結成された。1989年9月30日放送の『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBSテレビ)に出場(エントリーナンバーは4)して「別れたその夜」を演奏し、完奏を果たした。 1990年、木幡、松居、平野、後藤昭久(ベース/ピアノ)で「マリア観音(ミニ・アルバム)」録音。録音時間の都合から「吊花」では後藤がピアノ、木幡がベースを弾いている。1992年、木幡、松居、平野、後藤で『背徳の扉』を録音する。1993年に後藤が脱退し、木幡、松居、平野で『共喰いの村』録音。木幡がベースを弾き、後にメンバーとなる小森雅彰が1曲キーボードを弾いている。また、小森雅彰(キーボード)、宮脇慎吾(ベース)が加入した。1994年、木幡、松居、小森、平野、宮脇で『義眼』録音。松居は途中で脱退したと思われる(後に高円寺百景、DMBQ)。松居脱退により、これ以降、基本的にヴォーカル+キーボード・トリオ編成となる(曲により木幡がギター、ドラム等を演奏)。木幡がマリア観音名義で『懺悔の風呂場』録音。小森が2曲ゲスト参加した以外は全ての楽器を木幡が演奏している。これ以降木幡は断続的にマリア観音名義でソロ作品を作製していく。 1995年、木幡、小森、平野、宮脇で『犬死に』録音。1996年、宮脇が脱退。木幡、小森、平野で『髑髏』録音。木幡がベースを弾き、宮脇が1曲アコースティック・ギターを弾いている。この年に宮脇が自殺した。5月27日に木幡、小森、平野で追悼ライヴを行った。この時期不在のベース・パートは小森がシンセベースで補完。9月のライヴでは渋さ知らズの不破大輔がゲスト参加でベースを弾いた。10月にコントラバス奏者の河崎純が加入。 1997年1月に小森が失踪し、2月に平野が脱退した。同年3月に岡野太(ドラム)が加入。木幡、河崎、岡野の3人で活動再開。近藤達郎(キーボード)が加入し、7月に平野が復帰。木幡、河崎、平野、近藤(ゲスト)でライヴ。次回ライヴは小森が復帰するとアナウンスされた。さらに9月に小森が復帰。これ以降河崎はエレクトリック・アップライト・ベースを弾くようになった。1999年、木幡、河崎、平野、小森で『開き盲目』録音。
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