結成から1910年代
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「サッカーアルゼンチン代表の歴史」の記事における「結成から1910年代」の解説
記録に残るアルゼンチン代表の初試合はウルグアイとの間で行なわれた。この試合は1901年5月16日、ウルグアイのモンテビデオで開催され、アルゼンチンが3-2で勝利した。先発メンバーはR・W・ルッド、W・レスリー、A・C・アデコット、A・A・マック、H・ラトクリフ、E・L・ダガン、G・E・レスリー、J・O・アンダーソン、S・U・レオナルド、Ch・E・ディキンソン、G・N・ディキンソンであり、J・O・アンダーソンがキャプテンを務めた。当時のアマチュアリーグでもっとも成功を収めていたのがローマスACとアルムニACであり、ほとんどの代表選手がこの2クラブから招集されている。この試合はイギリス(イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの4地域協会)以外で行なわれた世界最初の国(地域)代表戦であり、国(地域)同士の対戦としては、アルゼンチンとウルグアイはもっとも多くの試合を行なっている2国である。記録に残るアルゼンチン代表の2試合目もモンテビデオで開催されたウルグアイ戦であり、今度は6-0で大勝した。代表結成後数年間の親善試合は南米の国との間でのみ行われた。当初は他国遠征には時間がかかると言うのが理由であり、やがて第一次世界大戦の勃発が南米以外の国との親善試合を避ける理由となった。 1905年までに行なわれた試合はいずれも親善試合だったが、1906年にコパ・リプトンという大会が開催された。この大会はアルゼンチンサッカー協会(AFA)とウルグアイサッカー協会によって組織され、1992年まで断続的に続いた。1906年の第1回大会はモンテビデオで開催され、2-0でウルグアイを破ったアルゼンチンが初の公式タイトルを獲得した。 同年夏にはやはり両国のサッカー協会が組織したコパ・ニュートンが開催され、今度はアルゼンチンのブエノスアイレスでウルグアイを2-1で破った。アルゼンチンは1906年から1909年のコパ・リプトンで4連覇を果たし、1907年から1911年のコパ・ニュートンでも4連覇を果たし、1913年・1915年・1916年のコパ・リプトン、1916年のコパ・ニュートンでもトロフィーを獲得している。 1916年には南米サッカー連盟 (CONMEBOL) が組織され、同年にはCONMEBOLが組織した第1回南米選手権(現在のコパ・アメリカ)が開催された。1916年の独立宣言から100周年を記念して、第1回大会はアルゼンチンが開催国となり、ブエノスアイレスとアベジャネーダで試合が行なわれた。この大会にはアルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイの4ヶ国が出場。アルゼンチンは3試合を戦い、チリには6-0で勝利し、ブラジルとウルグアイには引き分けた。ウルグアイが2勝1分、アルゼンチンが1勝2分、ブラジルが2分1敗、チリが1分2敗となり、ウルグアイが優勝した。優勝決定戦となったウルグアイ戦の先発メンバーはイソーラ、ディアス、レジェス、マルティネス、オラサール、バダラッコ、エイシンヘール、アルベルト・オチャコ(英語版)、H・アジェス、E・アジェス、ペリネッティだった。 1917年の第2回南米選手権(開催国:ウルグアイ)はウルグアイが2連覇を果たし、アルゼンチンは再び2位に終わった。1919年の第3回南米選手権(開催国:ブラジル)ではブラジルが初優勝し、アルゼンチンは3位となった。1920年の第4回南米選手権(開催国:チリ)ではウルグアイがトロフィーを奪い返し、アルゼンチンは3度目の2位となった。第1回大会から第4回大会まではいずれも異なる国で開催されたが、1921年の第5回南米選手権は第1回大会同様にアルゼンチンが開催国となった。ブラジル、ウルグアイ、パラグアイに対して3連勝し、1点も許さずに初優勝を決めた。中心選手にはキーパーのアメリコ・テソリエーレ、ストライカーのペドロ・カロミーノなどがおり、フリオ・リボナッティが得点王に輝いた。
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