経済的移民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 15:09 UTC 版)
「ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化」の記事における「経済的移民」の解説
アメリカ大陸にやってきた移民の多くは経済的理由によるものであった。16世紀にスペインがアステカ、インカなど他の大きな先住民族を征服し、その上に立って植民地から富を得たことに刺激され、最初にアメリカに入ったイギリス人はジェームズタウンの植民地を作ったとき、同じように富が得られるものと期待していた。植民地に入った者達は新天地の経済的可能性を理解した富裕なイギリス人から資本を集めたバージニア勅許会社のような株式会社の支援を得ていた。この植民地の主目的は金脈を発見したり、アメリカ大陸を貫く東インドへの海路を見付けることであった。ジョン・スミスのような強力な指導者を得て、ジェームズタウンの開拓者達には金脈の探索よりも目の前にある食料や住居の確保というニーズが優先すると説得し、「働かざる者食うべからず」という名言を残した(これは新約聖書の欽定訳聖書からの引用であった)。高い死亡率で悲惨な状況となり、開拓者の間に絶望感を引き起こした。間もなくタバコが輸出できる換金作物となり、バージニアや近くのメリーランドのような植民地を経済的に独り立ちさせることとなった。 1587年のバージニア入植の当初から1680年代まで、労働力の大半は海外植民地での新生活を求めてきた年季奉公の移民に掛かっており、人口の大半も占めていた。17世紀の間にチェサピーク湾地域ではヨーロッパ人移民の4分の3は年季奉公人であった。年季奉公人の多くは、家畜の飼育の拡大、土地の囲い込みおよび田園地帯での過剰人口のためにそれまでの土地から押し出されたイギリスの農夫であった。この不幸な事態の展開で数多くの、特に独身男性がイギリスを離れた。しかし、アメリカの土地所有者は労働者を求めており、渡航者が数年間働いてくれるのであれば、喜んでアメリカまでの渡航費を払ってくれるという期待があった。渡航費の代価として7年間の労働を売ることで、アメリカで自分の土地を手に入れることが期待できた。 フランスの植民地では、経済の焦点は先住民族との皮革交易であった。農業は生活に必要な分に留まり、グランドバンクのタラなどの魚類はフランスなどヨーロッパ諸国に輸出できて主要な収入源となった。毛皮交易は北アメリカの北西部海岸でもロシア人によって行われた(アラスカを支配した露米会社など)。フレンチ・インディアン戦争の後、イギリスは実質的に北アメリカのフランス領を占領し、フランスにはサンピエール島・ミクロン島のみを残すことになった。
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