納置品と制作年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 14:43 UTC 版)
出土した納置品は盗掘や再納置の痕跡がなく、塔の創建と同時に納められたものと考えられ、その制作年代から塔の創建時期について考察されている。 舎利容器は3重入れ子状の箱の中に瑠璃舎利瓶を納めた4重容器となっている。外箱は青銅製で鋳造で鍍金されている。箱と蓋は別鋳で被せ蓋になっており前後に留め具があり留め釘を挿し込んで留めている。寸法は長寸10㎝、短寸7.4㎝、高さ7.6㎝(うち脚高2.4㎝)で、格狭間を各面に2つずつ設けた脚が付いている。この格狭間の形状について石田は平安初期の様相としたうえで、梵釈寺説の根拠とした。中箱は銀板製で、蓋は1枚板の打ち出しで、箱は1枚板を曲げて箱側面を作り底に別板を貼っている。蓋は印籠蓋で前後に留め具があり、宝珠をあしらった留め釘を挿し込んで止めている。寸法は長寸8㎝、短寸5.6㎝、高さ4㎝で全体的に丸みを帯びた形状となっている。内箱は金板製で、形や製作法は中箱に類似する。寸法は長寸6.2㎝、短寸4.3㎝、高さ3.4㎝。内部には舎利瓶を安置するための受け座が鋲留めされている。受け座は花形で8弁、花弁は花形の透かしと点線彫で縁取りされている。点線彫による縁取りは沖ノ島出土品や法隆寺救世観音像に見られ、古墳時代から飛鳥白鳳時代の特徴とされる。瑠璃瓶は径3㎝高3㎝口径1.8㎝で濃緑色。口縁に金箔が押されて金の蓋が被せられていた。元来は舎利瓶内にあったと思われる舎利は、出土したときに瓶が倒れたようで内箱の中から見つかった。舎利は水晶で1㎜以下の粒が3つであった。外箱と中箱の間には石膏状の泥で満たされており、紫水晶2個、孔の空いた南京玉14個が発見された。泥は香泥と思われる。 舎利箱の外側からは銀銭12枚(うち1枚は逸失)が出土。銀銭は富本銭以前に流通していたとも言われる無文銀銭で、舎利箱の脚に癒着していた。径3㎝重10g程度で10枚に穴が穿たれていた他、2枚には「田」字状の刻印がある。 共伴する鉄鏡は径7㎝、厚0.3㎝で、背面に金銅板を張り付け銀の縁で留め付けている。背面は唐草模様で地を魚々子打ちを施し、中央の鈕座は八弁の花形が透かし彫りになっている。これに似る鏡は奈良県松山古墳から出土している。魚々子打ちは日本においては7世紀後半から見られるが、渡来品であればこれを遡る可能性があるとされている。 その他に鈴2個、糸孔のある硬玉3個、腐敗した木片多数が出土した。なんらかの荘厳具と思われるが、出土時の状況がわからず詳細は不明である。
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