納置品盗掘騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 14:43 UTC 版)
塔心礎納置品が出土した経緯にはトラブルがあった。第二次発掘調査において柴田は遺跡全体を測量する必要性を感じ、測量士の推挙を梅原に依頼。梅原は測量士Aを推薦した。Aはトランシットと平板測量を併用する方法を考古学会に持ち込んだ人物で、京都大学の発掘調査に度々従事していた。測量を進めたAは塔跡の中央に塔心礎が無いことに不満を覚え、南滋賀遺跡の発掘に専念していた柴田に塔跡中心を掘ることを申し出て柴田もこれを認めた。一方でAは測量に向かったきり一週間も下宿先に戻らなくなり、これを不審に思った梅原は大学院生を状況確認の為に向かわせたところ、Aが地元住民と共に塔心礎を地中から発見したところであった。報告を受けた梅原は翌日に柴田に連絡するが繋がらず、そうしている間にAらは舎利容器を取り出してしまった。Aは高麗寺塔跡(木津川市)の発掘にも参加しており、礎石の南側面に舎利孔がある事を知っていた。 舎利容器を手にしたAは塔心礎を埋め戻し、翌日に梅原の元に現れて得意げに報告をした。貴重な遺物が素人により記録が残されないままに掘り出されてしまった事に驚いた梅原は、次善策としてAの立会のもとで塔心礎などの出土状況の検証を柴田らと行った。するとAが提示した出土品と出土状況が一致しないことが判明。Aと地元住民は警察に連行され、厳しい取り調べが行われた。地元住民は出土品の窃盗を認め、隠し持っていた銀貨2枚と鏡1枚が回収されたが、Aは否認しつづけ釈放される。 翌年にAは雲崗石窟の実測に従事するが、その際の酒宴で「崇福寺の秘宝はまだある」と口走り翌朝に逃亡。数日後に京城駅で捕まって再び警察署で取り調べを受ける。Aが銀銭を鴨川に平行する疎水に投棄したと証言したことから川底を100mほどさらったが何も発見できず、Aは再び釈放された。結局少なくとも銀貨1枚が行方不明のままに旧国宝に指定され現在に至っている。なお塔心礎の柱座の周囲には栗石の残骸があり心柱の柱脚を支えていたと考えられるが、これも破壊されて詳細は不明である。
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