筵・畳の誕生
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飛鳥時代(7世紀後半)、御調郡内の古代山陽道沿いに位置した本郷平(現在の尾道市御調町丸門田)に寺があった(本郷平廃寺跡)。その寺で用いた“せん”の制作に筵が使われていたことが判っている。 鎌倉時代初期、備後の荘園は年貢として貢納を命じられている。 建久2年(1191年)、後白河院は河北荘へ畳・ゴザなどの貢納を命じる。 建久5年(1194年)、高野山金剛峯寺は大田荘へ半畳12帖貢納を命じる。 南北朝時代から室町時代の文献に「備後筵」が出てくる。この頃には備後の名がブランドとして定着していた、あるいはこの筵を畳表と同一視してこの頃から備後表の製造が行われていたとも考えられている。 『師守記』 : 貞和3年(正平2年/1347年)、中原師守は父師右の墓前供養した僧に備後筵2枚を布施した。(備後筵の名が出てくる現存最古の資料) 『大乗院寺社雑事記』 : 長禄4年(1460年)『若宮祭田楽記』に「備後筵十枚 代一貫二百文 百二十文宛 筵十枚代五百文」とある。(産地名のない筵が10枚500文に対して、備後筵は10枚1貫200文と2.4倍の価値があった。) 文安2年(1445年)『兵庫北関入船納帳』には鞆船で350枚・尾道船で200枚以上の筵を兵庫に運んだ記録が残る。 室町時代、書院造が広まるに連れ畳表の需要が増えていった。天文・弘治年間(1532年-1557年)、沼隈郡山南村(現在の福山市沼隈町山南)で水田でイグサを栽培し引通表を製造していた記録が残る。ここから現在の備後表の歴史が始まった、あるいは備後表の産地の基盤が確立したものと考えられている。 安土桃山文化が繁栄していくにつれ、備後表の需要が高まっていたと考えられている。 (天正4年(1576年)築城)安土城天守に「畳は備後表に高麗縁」が用いられた。『信長公記』「御幸の御間」の説明で「御畳、備後面、上々に青目なり」とある。 天正13年(1585年)、本願寺が摂津国中島に移るにあたり下間頼廉は備後国坊主・門徒中に備後表の調達を依頼、のちに沼隈山南の光照寺から本願寺へ300枚贈られた。 慶長2年(1597年)、豊臣秀吉は尾道から畳表1,000枚の徴発を命じる。また豊国神社に備後表が用いられた記録が残る。 当時、引通表では長いイグサを用いるため、短いものは捨てられていたという。慶長元年(1596年、慶長5年(1600年)頃・慶長7年(1602年)とも)、沼隈郡山南村菅野の十郎左衛門(長谷川新右衛門/菅野十郎左衛門とも)が廃物となっていた短藺を用いて中指表(中継表)を発明した。それまで捨てられていたもので製造できるようになったことで供給量が増え、それまでイグサを無理やり限界以上に長く育てていたが中継表ではそこまで必要なくなったことで用いるイグサの品質が上がることになり、イグサの茎の中ほどを使うため畳表の耐久力が上がることになる。のちに中継表が高級品として流通するようになるがいつ頃かは不明である。
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