筵・畳の誕生とは? わかりやすく解説

筵・畳の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 05:35 UTC 版)

びんご畳表」の記事における「筵・畳の誕生」の解説

飛鳥時代7世紀後半)御調郡内の古代山陽道沿いに位置した本郷平(現在の尾道市御調町丸門田)に寺があった(本郷廃寺跡)。その寺で用いた“せん”の制作に筵が使われていたことが判っている。 鎌倉時代初期備後荘園年貢として貢納命じられている。 建久2年1191年)、後白河院河北荘へ畳・ゴザなどの貢納命じる。 建久5年1194年)、高野山金剛峯寺大田荘半畳12貢納命じる。 南北朝時代から室町時代文献に「備後筵」が出てくる。この頃には備後の名がブランドとして定着していた、あるいはこの筵を畳表同一視してこの頃から備後表製造が行われていたとも考えられている。 『師守記』 : 貞和3年正平2年/1347年)、中原師守は父師右の墓前供養した僧に備後2枚布施した。(備後筵の名が出てくる現存最古資料) 『大乗院寺社雑事記』 : 長禄4年1460年)『若宮祭田楽記』に「備後筵十一貫二百文 百二十文宛 筵十五百文」とある。(産地名のない筵が10500に対して備後筵は101貫200文と2.4倍の価値があった。) 文安2年1445年)『兵庫北関入船納帳』には鞆船で350尾道船で200上の筵を兵庫運んだ記録が残る。 室町時代書院造が広まるに連れ畳表需要増えていった。天文弘治年間1532年-1557年)、沼隈郡山南村現在の福山市沼隈町山南)で水田イグサ栽培し引通表を製造していた記録が残る。ここから現在の備後表歴史始まった、あるいは備後表産地基盤確立したものと考えられている。 安土桃山文化繁栄していくにつれ、備後表需要高まっていたと考えられている。 (天正4年1576年築城安土城天守に「畳は備後表高麗縁」が用いられた。『信長公記』「御幸御間」の説明で「御畳、備後面、上々青目なり」とある。 天正13年1585年)、本願寺摂津国中島に移るにあたり下間頼廉備後国坊主門徒中に備後表調達依頼、のちに沼隈山南光照寺から本願寺300贈られた。 慶長2年1597年)、豊臣秀吉尾道から畳表1,000徴発命じる。また豊国神社備後表用いられ記録が残る。 当時、引通表では長いイグサ用いるため、短いものは捨てられていたという。慶長元年1596年慶長5年1600年)頃・慶長7年1602年)とも)、沼隈郡山南村菅野十郎左衛門長谷川新右衛門/菅野十郎左衛門とも)が廃物となっていた短用いて中指表(中継表)を発明したそれまで捨てられていたもの製造できるようになったことで供給量が増えそれまでイグサ無理やり限界以上に長く育てていたが中継表ではそこまで必要なくなったことで用いイグサ品質上がることになり、イグサ中ほどを使うため畳表耐久力上がることになる。のちに中継表が高級品として流通するうになるいつ頃かは不明である。

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