第3煙突の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:50 UTC 版)
1912年(明治45年)6月15日、竹内維彦は農商務次官から煙害防止のため、亜硫酸ガスの濃度を規定値以下にした上で排出すること。排煙が煙室を通過する速度を規定値以下にした上で煙室内に沈殿した煙塵を適宜除去するか、さもなければ煙塵を収集する装置を設けること。そして上記の目的を達成するための施設の設計図を、同年12月25日までに農商務大臣に提出し、認可を受けるよう等の命令を受けた。これは日立、足尾、小坂、別子などといった有力銅鉱山周辺で激しい煙害が発生し、大きな社会問題を引き起こしている状況を見た農商務省が、学者らの協力を仰いだ上で決定した煙害対策を各鉱山に実施させようとしたものであった。更に農商務省は1913年(大正2年)3月に、麦作の影響を防ぐために4月半ばから5月半ばにかけての30日間、そしてタバコの作付に対しての影響を防ぐために6月半ばから8月初めの50日間の亜硫酸ガス濃度を引き下げるように命じた。これらの農商務省の命令は「排煙ガス濃度制限命令」と呼ばれ、排煙中に含まれる亜硫酸ガス濃度を低下させることによって、煙害を軽減させようともくろんだものであった。また、排煙が煙室を通過する速度を規定値以下にした上で煙室内に沈殿した煙塵を適宜除去するか、さもなければ煙塵を収集する装置を設けることとの規定は、排煙中に含まれる有害な煙塵の除去を目的としたものである。 この命令を受けて日立鉱山側は1912年(大正元年)の年末、農商務省に計画書を提出した。計画では政府の命令に従って排煙中の亜硫酸ガス濃度を低下させて排出させるために、新たに3本の煙突を建設するとしていた。3本の煙突の建設場所は、神峰煙道の先端に第1煙突、製錬所の裏山、既存の八角煙突よりも高所に第2煙突、第3煙突を建設する予定であった。ちなみに第2煙突の建設予定場所は後に大煙突が建設された場所であった。 3本の煙突のうち、第2、第3煙突は全く同じものであった。高さ約36メートル、内径約18メートルという樽を思わせるずんぐりとした形状であり、煙突内部には高さ約11メートルの卵形をした煙突が6基配置されていた。第1煙突は第2、第3煙突よりも一回り小さく、高さ約24メートル、内径約11メートルの煙突内部に卵形をした煙突が4基配置されているものであった。このような構造を採用した目的は、煙突内部に配置された複数の小型煙突に排煙を分散することによって効率的に空気と混合させることにあった。その上で煙突の底部に扇風機を複数設置し、空気を送り込んで排煙を希釈するとした。しかし当時の日立鉱山は電力不足であり、計画中の夏井川の発電所が完成後に扇風機は使用するとして、煙突完成後2年間は排煙中の亜硫酸ガス濃度の基準を緩めてもらうよう要請した。結局、計画案、そして期限を区切った亜硫酸ガス濃度の基準緩和について農商務大臣の認可を得ることに成功した。 しかしながら日立鉱山当局者はこの農商務省の命令に基づく煙突の効果に大きな疑問を持っていた。なぜならば排煙を希釈して排出する目的で建設された神峰煙道がほとんど効果が無く、排煙を希釈させて排出する手法そのものを疑問視していたためであった。しかし政府の命令を無視することもできない、そこで計画案にある3本の煙突のうち、まずは第3煙突のみ造ってみて様子を見ることにした。
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