第2、第3、第4、第5の哨戒 1942年4月 - 1943年1月
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4月28日、グランパスは2回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。しかし、この哨戒は5月17日夜に北緯08度01分 東経151度29分 / 北緯8.017度 東経151.483度 / 8.017; 151.483の地点で駆逐艦時雨の砲撃と爆雷攻撃を受けて損傷を受けたり、北緯03度11分 東経143度00分 / 北緯3.183度 東経143.000度 / 3.183; 143.000の地点付近で発見して追跡した陸軍船生駒山丸(明治海運、3,173トン)に振り切られたり、あるいは悪天候に祟られるなどして戦果を挙げることはなかった。6月17日、グランパスは51日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 7月8日、グランパスは3回目の哨戒でルソン島およびミンドロ島方面に向かった。7月18日、グランパスは南緯03度50分 東経119度10分 / 南緯3.833度 東経119.167度 / -3.833; 119.167の地点で単独航行中のタンカーを発見し、魚雷を3本発射。しばらくすると煙が立ち上るのが確認され、1本は命中したものと判断された。8月12日にも、北緯14度12分 東経119度34分 / 北緯14.200度 東経119.567度 / 14.200; 119.567のルバング島近海で目標に対して魚雷を3本発射したが、この攻撃は成功しなかったと判断される。結局のところ、この哨戒も対潜攻撃などに邪魔されて戦果を挙げることはなかった。8月30日、グランパスは54日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がジョン・R・クレイグ少佐(アナポリス1930年組)に代わった。その後、グランパスはブリスベンに回航された。 10月7日、グランパスは4回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。この哨戒ではチョイスル島とベララベラ島に4名の沿岸警備隊員を上陸させる任務も与えられており、この海域にいた日本の駆逐艦に発見されることなく上陸させることが出来た。この頃はガダルカナル島の戦いが一つの山場を迎えつつあり、グランパスの哨戒海域には多数の日本海軍の艦船が航行することが考えられた。グランパスはこの海域で5つの輸送船団を発見し、その中には4隻の巡洋艦と多数の駆逐艦の姿もあった。グランパスは何度も攻撃したものの戦果は挙がらず、逆に合計で104発の爆雷を投下された。10月18日には2隻の川内型軽巡洋艦に対して雷撃を行い、この攻撃で1本が軽巡洋艦由良に命中したものの不発に終わったと伝えられた。また、10月12日と、11月6日から15日にかけては駆逐艦に対して4度の攻撃を行ったが、いずれも成功しなかった。11月23日、グランパスは58日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。 12月14日、グランパスは5回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。しかし、グランパスの哨戒海域は警戒が厳重であった。41回にわたり敵と接触して5度にわたり果敢に攻撃し、3隻24,000トンの戦果を報じたものの、全て認定されなかった。1943年1月9日1406、ニューブリテン島アドラー湾近海で潜航中、ラバウルに向かって浮上航走中の伊25を発見し、2800mの距離から魚雷3本を発射したが、魚雷2本は回避され、1本は伊25の右舷中央部艦底下を通過していった。1月19日、グランパスは37日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。
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