第八話 八条宮とは? わかりやすく解説

第八話 八条宮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 13:44 UTC 版)

豊臣家の人々」の記事における「第八話 八条宮」の解説

正親町天皇皇孫六ノ宮幼い頃から和学の道で飛び抜けた才能見せ、その豊潤な才は「神童」とまで謳われた。やがて宮は信長から政権引き継いだ秀吉が、唐天竺にもない途方もない巨城・大坂城築いたという話を耳にする。同時に城の一画ささやかな茶室設けて茶道楽を愉しんでいるとも聞き、巨城の片隅で二畳ほどの広さしかないという茶室を営むとはいかなる風情だろうと宮は大い歓心そそられるが、しばしの後に秀吉黄金づくめの茶室携行して御所現れた。清明さを旨とする公家の美とまった異質な絢爛極める美意識初め触れた宮は、その闊達な人柄相まって秀吉強く魅了される秀吉も宮を気に入りかねてより皇族豊臣家迎えたい望んでいたことからすぐさま奏請し、宮は秀吉猶子迎えられる。やがて宮が元服し「智仁」という名を賜り親王宣下された頃、秀吉実子鶴松誕生して宮は皇族復帰することとなるが、秀吉は宮への餞として八条川原屋敷送り、「八条宮」という新し宮家創設させることにした。秀吉多忙であまり造営に関われなかったが、宮はこれをきっかけ建築関心を持つうになる。そして時は流れて秀吉死に関ヶ原経て天下覇権家康握ることとなった家康琴棋書画にまったく関心のない男で、宮中典雅もまるで理解しないどころか天子尊崇もせず法度押しつけ公家社会がんじがらめ縛り上げ宮中はまるで陽が落ちたように寂しくなった。やがて大坂の陣豊臣家滅亡し秀吉の時代終わったことを痛感した宮は傷心の身を京南郊へと移し、かつて秀吉屋敷作った思いでを偲びながら後の桂離宮となる宮殿の造営始める。宮の表現によれば瓜畑のかろき茶屋」であるものの、その美しさ広く喧伝され世に知られた。その後宮は五十歳薨ずるが、折しもその死からほどなく家康廟所ある日東照宮造営される。後年東照宮における徳川家美意識御所における宮のそれとは、さながら美の対極のように取り沙汰されることとなる。

※この「第八話 八条宮」の解説は、「豊臣家の人々」の解説の一部です。
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