第八話 八条宮
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正親町天皇の皇孫・六ノ宮は幼い頃から和学の道で飛び抜けた才能を見せ、その豊潤な才は「神童」とまで謳われた。やがて宮は信長から政権を引き継いだ秀吉が、唐天竺にもない途方もない巨城・大坂城を築いたという話を耳にする。同時に城の一画にささやかな茶室を設けて茶道楽を愉しんでいるとも聞き、巨城の片隅で二畳ほどの広さしかないという茶室を営むとはいかなる風情だろうと宮は大いに歓心をそそられるが、しばしの後に秀吉が黄金づくめの茶室を携行して御所に現れた。清明さを旨とする公家の美とまったく異質な絢爛を極める美意識に初めて触れた宮は、その闊達な人柄も相まって秀吉に強く魅了される。秀吉も宮を気に入り、かねてより皇族を豊臣家に迎えたいと望んでいたことからすぐさま奏請し、宮は秀吉の猶子に迎えられる。やがて宮が元服し「智仁」という名を賜り親王を宣下された頃、秀吉に実子・鶴松が誕生して宮は皇族に復帰することとなるが、秀吉は宮への餞として八条川原に屋敷を送り、「八条宮」という新しい宮家を創設させることにした。秀吉は多忙であまり造営に関われなかったが、宮はこれをきっかけに建築に関心を持つようになる。そして時は流れて秀吉が死に、関ヶ原を経て天下の覇権は家康が握ることとなった。家康は琴棋書画にまったく関心のない男で、宮中の典雅もまるで理解しない。どころか天子を尊崇もせず法度を押しつけて公家社会をがんじがらめに縛り上げ、宮中はまるで陽が落ちたように寂しくなった。やがて大坂の陣で豊臣家が滅亡し、秀吉の時代が終わったことを痛感した宮は傷心の身を京南郊の桂へと移し、かつて秀吉と屋敷を作った思いでを偲びながら後の桂離宮となる宮殿の造営を始める。宮の表現によれば「瓜畑のかろき茶屋」であるものの、その美しさは広く喧伝されて世に知られた。その後宮は五十歳で薨ずるが、折しもその死からほどなく家康の廟所である日光東照宮が造営される。後年、東照宮における徳川家の美意識と桂御所における宮のそれとは、さながら美の対極のように取り沙汰されることとなる。
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