立評と古代の巨摩郡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 05:55 UTC 版)
『和名類聚抄』では等力、速見、栗原、青沼、真衣、大井、市川、川合、余部の9郷が見られる。このうち等力と栗原は飛び地であった可能性が指摘され、のちに青沼郷とともに山梨郡へ編入されている。また、市川郷の一部も八代郡へ編入される。古代甲斐国では甲斐の黒駒伝承に象徴される馬産が盛んな地域で、特に巨摩郡には真衣野牧・穂坂牧・柏前牧の三御牧が設置され、『延喜式』によれば朝廷に駒を貢進していたという。 巨麻郡へは朝鮮半島から高句麗遺民が遷置されたと考えられており、渡来人の墓制である積石塚が分布する。それ以前にも巨麻郡地域や甲斐国内へ定住していた渡来人集団の存在を示す形跡が残されている。甲府盆地の北縁では甲府市横根町・桜井町に分布する横根・桜井塚古墳群や、笛吹市春日居町の春日居古墳群など、甲府市羽黒町・湯村から横根町、笛吹市春日居町・石和町の山裾地域にかけて積石塚が分布している。中でも笛吹市石和町の大蔵経寺山古墳群の5世紀にまで遡る積石塚であると考えられている。 甲斐国と同じく積石塚が分布し、渡来人が立評に関わっているとされる信濃国北部の高井郡でも同様の傾向が見られる。高井郡でも古代には馬産が行われており、甲斐の巨摩郡でも積石塚の分布域と重なる盆地北縁の甲府市塩部の塩部遺跡や、盆地南部・曽根丘陵の甲府市下向山の東山北遺跡の方形周溝墓、甲斐市志田のお舟石古墳などで4世紀後半から5世紀初頭の馬歯や馬具が出土している。信濃の高井郡や伊那谷も古墳時代からの馬の産地であり、甲斐・信濃の地域間での交流が指摘されている。 巨摩郡のうち積石塚が分布し古代において定住痕跡が見られる中核地域では、古代以前の縄文時代から弥生時代の遺跡が希薄な地域で、それまで未開発であった地域に対する立郡事情にも渡来人の関わりが考察されている。磯貝正義は栗原郷・等々力郷が飛び地であることに着目し、山梨郡の有力豪族が牧場経営などを目的に渡来人を利用して立郡したとする説を提唱している。 一方、末木健は考古学的見地から、天狗沢瓦窯跡(甲斐市天狗沢)から出土した古代瓦に高句麗系軒丸瓦が発見されたことに着目し、寺院建立のために渡来系工人集団が畿内政権の支援を得て立郡した可能性を指摘している。 その後、巨摩郡における渡来人の足跡は途絶えるが、『続日本紀』に拠れば霊亀2年(716年)に甲斐を含む東国の高麗人を武蔵国へ移し高麗郡が置かれたとあり、中核集団が移住したとも考えられている。
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