立命館大学学長・総長
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1946年 - 第二次世界大戦が終結すると立命館大学が末川を学長に迎える。なお、京都大学も末川を学長に迎える考えであった。末川は立命館大学の抜本的改革に着手、憲法と教育基本法を尊重して「平和と民主主義」を教学理念に据えた。 1949年 - 理事者・評議員・専任教職員・学生・生徒からなる全学代表による総長公選制(初の選挙により同大学総長就任)を導入。 同年、学園運営の重要事項の合意を形成する理事会・教授会・学友会・教職員組合などの全ての学園組織と学生の代表を加えた全学協議会制度を創設する。 以降、学生・大学院生・教職員と理事会の協議の場を拡大、教学の民主的発展に最大の努力を行い、末川の思想に基づき「立命館民主主義」と呼ばれる学園運営を行う。 「立命館大学#学風および特色」を参照 大学運営の傍ら、1950年の平和問題談話会発足時には主要メンバーとなる。 1950年 - 日本学士院会員に選任される。 1953年 - わだつみ像を立命館大学で受け入れることを決定する。 1960年 - 『民事法学辞典』を編集。 1969年 - 立命館大学総長を退任。 1970年 - 京都市名誉市民の称号を受ける。 第10回参議院議員通常選挙に三里塚芝山連合空港反対同盟の戸村一作が立候補すると、小田実らの「三里塚闘争と戸村一作氏に連帯する会」に参加した。 1977年2月8日 - 京都市左京区の自宅で脳血栓のため倒れる。京都府立医科大学附属病院に入院して治療を受けるが2月16日に死去。
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