神話や開湯伝説と温泉街の形成
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「別府温泉」の記事における「神話や開湯伝説と温泉街の形成」の解説
現代の別府市にあたる豊後国速見郡の鶴見岳山麓に温泉が湧くことは古代より広く知られていたが、鶴見岳の活発な噴火活動で荒地や沼地になっており、整備されていなかった。『豊後国風土記』や『万葉集』には、現在の柴石温泉の血の池地獄にあたる「赤湯の泉」や、鉄輪温泉の地獄地帯にあたる「玖倍理(くべり)湯の井」等についての記載がある。瀬戸内海を挟んで向かい合う伊予国(現代の愛媛県)について記した『伊予国風土記』逸文には、大国主命が鶴見山麓から湧く「速見の湯」を海底に管を通して道後温泉へと導き、少彦名命の病を癒したという神話が載る。771年(宝亀2年)に創祀されたとされる火男火売神社は、鶴見岳の2つの山頂を火之加具土命(ひのかぐつちのみこと)、火焼速女命(ひやきはやめのみこと)の男女二柱の神として祀っており、別府八湯の守り神として信仰を集めている。 柴石温泉は平安時代、別府温泉と鉄輪温泉は鎌倉時代には湯治場として利用されていた。浜脇温泉は八幡朝見神社の門前町として栄え、鎌倉中期には大友頼泰が日名子太郎左衛門尉清元を温泉奉行とし、朝見川、永石川、流川沿いなどに湧出する温泉が整備されていた。流川の近くにあった楠温泉には元寇の役の戦傷者が保養に来た記録が残っている。鉄輪温泉は一遍が開いたと伝わる(「開湯伝説#一遍」参照)。 江戸時代には明礬温泉で明礬の生産が始まり、街道沿いの観海寺温泉や堀田温泉や亀川温泉が整備され、瀬戸内海沿岸各地から湯治舟が集まった。特に浜脇温泉と別府温泉は温泉番付では必ず上位に登場するなど、次第にそれぞれの温泉周辺に温泉街が形成され、庶民の湯治が一般的となった。これらの温泉街では湯治生活の必需品として炊事に用いる笊などの竹細工や、櫛などの柘植細工が盛んとなって現在も生産が続いており、工芸品としても発達した別府竹細工は国の伝統的工芸品にも指定されている。
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