砂防に取り組むまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 09:04 UTC 版)
栗田定之丞は久保田城下の中亀ノ町(現楢山南中町)に生まれる。実父は久保田藩士の高橋内蔵右衛門勝定、母は宇佐見三十郎の娘で、三男であった。幼名は仁助。両親は最初、定之丞を掃除坊主の養子にしようとして、定之丞の剃髪を試みるが、熟睡時を狙っても定之丞の意思は堅く坊主として多くの人に使われるよりは、たとえ3人扶持の赤貧の養子でも良いと主張し、両親はその縁談をあきらめている。 14歳の時、栗田家の養子になり、名を彌太郎とした。栗田家の祖は源頼季で、長年善光寺の別当を務めたが、天正年間に退転した。養子入りは栗田茂寛の3歳の娘である金子の婿になる形であったが、彌太郎は金子が自分の妻であることを知らないで、妹として保育に力を入れ、おぶって遊んでいたという。事情を知っても養子入りから更に十余年で始めて結ばれている。 1783年(天明3年)3月13日、茂寛の実子である茂光が早世したため、11月に彌太郎が栗田家を嗣いで、名を小右衛門、諱を定之丞如茂とした。この年、17歳にして藩主・佐竹義敦に御目見し、大番への出仕を命じられる。定之丞は性格が剛毅で文武に励み、庶民への情に厚かった。この年は天明の大飢饉の年で、藩は12月に施行小屋を八橋村に建て、貧民や身寄りが無い人を選んで約800人に毎日白米3合を支給している。 1788年(天明8年)1月、定之丞は御金蔵の物書加勢に選ばれ、1791年(寛政3年)には定加勢に進んで藩会計の分担の仕事に就いている。しかし、この年の12月に病気で一時退役した。寛政4年には金子と正式に結婚し、1794年(寛政6年)の9月に長子の茂教が生まれる。 1796年(寛政8年)8月には再仕官して、河辺郡新屋村の唐船見御番を命じられた。当時は海防の重要性が認識されていた。唐船見御番は中村集落の西方で海に突出する小さな丘の上にあった。これは砂の中に土を盛ったもので、黒船来航時にはやや東方に後退し、林の中に胸壁を作ったものであったという。当時の唐船見御番は6ヶ月交代で、翌年の1月か2月まで在職していたと思われる。この時、砂防の重要性と造林が国防に繋がることを定之丞は認識したのかも知れない。
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