砂浜時代(-1960)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 14:07 UTC 版)
佐田浜は鳥羽市鳥羽の小字であり、地名の通り、本来この地は砂浜海岸であった。江戸時代には鳥羽城の帯曲輪(岩崎廓)の北端で佐田口門が置かれ、沖合の小島には縁期松(えごのまつ)と呼ばれるマツの木があり、男女が出会う約束を交わす場所とされていた。佐田口門は嘉永7年11月4日(グレゴリオ暦:1854年12月23日)の安政東海地震で大破し、扉が流失したという記録が残っている。 明治に入り1907年(明治39年)になると、参宮鉄道は宇治山田市(現・伊勢市)の山田駅(現・伊勢市駅)から二見浦を経由して鳥羽に至る鉄道の建設を計画し逓信大臣の認可を得た。しかし参宮鉄道の国有化の影響で実際の着工は遅れ、1911年(明治44年)7月21日に延伸し、鳥羽駅が開業した。鳥羽は市街地まで山が迫る地形をしているので、駅を造るために水深1.8 mの海域を15,000坪余(≒5 ha)埋め立てて土地を確保した。こうして佐田浜の浜辺に建つ鳥羽駅が完成し、1960年(昭和35年)頃までホームの目の前に海が迫る光景を見ることができた。 また、縁期松の周辺海域は鳥羽町の指定海水浴場となった。昭和初期に縁期松は枯れてしまい、御木本幸吉が新しい松を植え直した。1928年(昭和3年)6月、志摩電気鉄道(現・近鉄志摩線)が鳥羽 - 二見間の延長工事許可を取得、その一環として佐田浜の埋め立てを計画したが、毎年のように計画変更や期限の延長申請を繰り返し、1935年(昭和10年)8月に鉄道免許の失効を理由に工事延長が不許可となり、頓挫した。この頃、待月楼の別館として佐田浜に旅館対神館が建てられた。対神館は太平洋戦争中、大日本帝国海軍の伊勢防備隊に建物を提供した。 1946年(昭和21年)1月1日、宇治山田市から旅館・戸田家が進出し、佐田浜に戸田家旅館鳥羽別館(現・戸田家)を開業した。戸田家は旧・対神館を継承する形で鳥羽に進出した。
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