矢野綾子との出会いと『風立ちぬ』
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「堀辰雄」の記事における「矢野綾子との出会いと『風立ちぬ』」の解説
1932年(昭和7年)1月に「燃ゆる頬」を雑誌『文藝春秋』に発表後、7月末から9月初めまで軽井沢に滞在。8月に「プルウスト雑記」を『新潮』や『作品』に、9月には「麦藁帽子」を『日本国民』に発表。だが、その作品も本格的なロマン(長編小説)には発展しなかった。12月末に神戸に行く。 1933年(昭和8年)に季刊雑誌『四季』(二冊で終刊)を創刊。片山総子との別離や心身の疲労を癒すため、6月初めから9月まで軽井沢の「つるや旅館」に滞在し、作品執筆に入る。その村で7月に、油絵を描く少女・矢野綾子と知り合う。この時期の軽井沢での体験を書いた中編小説『美しい村』の「夏」の章(『文藝春秋』に発表)で、綾子との出会いが描かれ、これまでの様々な人との別れの悲劇を乗り切る。この作品は『聖家族』以後の堀の人生の要約として読むことができる。この年の秋、一高生の立原道造が向島の堀宅を訪問し立原と知り合う。立原と堀は似通った境遇や環境で育っていた。 1934年(昭和9年)5月、リルケの『マルテの手記』などを読み始め、リルケやモーリアックの作品に親しみ出す。9月、北多摩郡砧村大字喜多見成城(現:世田谷区成城)在住の綾子と婚約する。モーリアック体験を経て、10月に長野県北佐久郡西長倉村大字追分(現:北佐久郡軽井沢町大字追分。堀は終生この地を「信濃追分」と呼んでいた)の油屋旅館で「物語の女」を書き上げ、続編の構想も練るが停滞する。綾子もまた肺を病んでいたために、翌年1935年(昭和10年)7月に八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に2人で入院するが、病状が悪化した綾子は12月6日に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となり、1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にわたって執筆された。この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」を引用している。
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