着底大破
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:22 UTC 版)
3月19日、呉をアメリカ軍機動部隊の艦上機が襲撃した。日本軍は当初友軍機編隊と判断していたため、反応が遅れた。大淀は艦中央部右舷への至近弾により艦底を破損し、浸水して右舷に傾斜した。また直撃弾が2発あり、1発目は煙突付近に命中して罐室を破壊、2発目は第二機関室を破壊して喫水線上部に大孔をあけ、機関科員を中心に戦死者52名を出した。この被害によって6基の缶のうち4基が使用不能となった。ドックに入って舷側の穴を塞ぐなどの応急修理は行われたが、破損した機関部の補修など抜本的な修理は実施されず対空火器も一部破損したままであった。 5月15日、松浦(大淀艦長)は詫間海軍航空隊司令へ転任。駆逐艦雪風初代駆逐艦長、駆逐艦初月初代駆逐艦長等を歴任した田口正一大佐(当時、海軍航海学校教官)が、後任の大淀艦長に補職される。その後江田島湾に曳航されて迷彩塗装やカモフラージュの偽装が施され、浮き砲台となった。すぐ近くには同じく曳航されて浮き砲台となった重巡利根の姿があった。 7月24日、呉がアメリカ軍機動部隊艦載機の襲撃を受けた際に大淀は500ポンド爆弾3〜4発が命中、右に傾斜して着底した。駆けつけた住民(漁船)も消火に協力し、26日夕方になり鎮火に成功した。また排水作業によって傾斜も復旧された。 7月28日、ふたたびアメリカ艦載機による空襲(呉軍港空襲)を受けた。午前10時ごろ艦橋近くの被弾によって大規模な浸水が発生し、右に傾斜した。大淀の田口正一艦長は傾斜を防ぐために注水弁開けを指示したが、次々に命中する爆弾による浸水のために転覆を防ぐことが出来なかった。12時ごろ、大淀は右に横転した。現場は浅い海岸だったので、船体の一部のみ海面に出した状態で完全に船体は横倒しとなり、艦橋も左に大きく根元から歪んだ。 24日と28日の戦闘による大淀の戦死者は223名、負傷者は180名だったという。転覆後もさらに攻撃がおこなわれ、舷側に爆弾が命中している。 8月15日(終戦の日)、田口(大淀艦長)は職務を解かれた。大淀は同年11月に除籍された。戦後、アメリカ軍による被害調査が行われた。至近距離で炸裂した爆弾の水圧によって広範囲にわたって艦底が陥没している様子や、空中発射のロケット弾によって0.5インチの鋼板が貫通している様子などが写真に残されている。 大淀の損傷程度や転覆地点の状況などが比較的良好のため、完全浮揚してから解体されることになり、1947年(昭和22年)に船体の引き起こしと浮揚作業が行われた。浮揚後は播磨造船所呉船渠(旧呉海軍工廠)の第4船渠に入り、1948年(昭和23年)1月6日から解体に着手し、その後第3船渠に移り、8月1日に解体を完了した。大淀が沈没した飛渡瀬の海岸には、慰霊碑が建立されている。
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