着工後の沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 10:15 UTC 版)
1905年に蕪湖で安徽省私営鉄路公司が成立、蕪湖から景徳鎮までの鉄道建設を計画し、まず蕪湖から広徳までを着工する事になり、1911年4月に蕪湖~湾沚間の路盤や橋台が完成したが1914年3月に北京政府に計って公司は解散した。その後私営の未成路線を国有化して工事を続けようとしたが、第一次世界大戦の勃発により停止して放置された。1926年に宣城で商営蕪宣広長途汽車公司が成立し、路盤上でバス路線の営業を開始した。1934年に中華民国鉄道部が鉄道建設の為に路盤を回収してバス路線は廃止された。1932年6月17日に江南鉄路有限公司が成立して蕪湖~宣城間を建設する事となり、1933年2月に鉄道部より蕪湖~湾沚間を譲り受けた。1933年3月に工事を開始して、1934年11月25日に宣城~孫家埠間が開通した。1936年5月に京贛鉄路工程局が成立し、全線の測量・設計を開始した。南京~孫家埠間は江南鉄路公司の建設物を利用し、孫家埠~貴渓間は新規に建設した。安徽と江西の双方に分けてそれぞれ1936年9月と1937年2月に建設を開始し、1937年7月と10月に線路を敷設した。1937年11月に南京攻略戦が起こり南京と宣城が陥落し、工事は停止した。その時点では全線の路盤と橋台は完成し、両端には線路が敷設されていた。1938年夏に日本軍が中原に迫ると国民党政府は現地の軍隊に路盤や橋、トンネルを破壊し、軌道を取り除く様に命令した。蕪湖陥落後に日本軍の輸送の為に破壊された湾沚大橋に木橋を架けて宣城~孫家埠間に一年程列車が運行されたが、再度不通となった。日中戦争終了後に中国国民党は江南の鉄道を復活させ南京~蕪湖間は線路を敷設したが、蕪湖~宣城間は復活させずに国共内戦での東北部の解放区での線路敷設作戦用に枕木を外してしまった。
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