白嘉納
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:20 UTC 版)
白嘉納の当主は、本嘉納の治郎右衛門に対して、治兵衛を襲名してきた。先々代の社長は八代目嘉納治兵衛(1885年生)を名乗った。白嘉納には分家らしい積極性がある。1878年(明治11年)には業界に先駆けて今日では当たり前の瓶詰め酒を発売した。「白鶴」の商標登録をし、嘉納合名会社を設立した1897年(明治30年)頃には、生産・販売数量は業界一に躍り出ていた。首位の座は、戦災によって設備のほとんどを焼失するまでつづいた。昭和9年(1934年)には白鶴美術館を開館している。 しかし、白鶴酒造は第二次大戦により酒蔵の九割を焼失、大連・奉天・京城などの海外資産もすべて喪ってしまう。昭和22年にそれまでの嘉納合名を白鶴酒造と改称したときに社長に就任したのが八代目治兵衛の長男嘉納正治(1912年5月生まれ)で、正治は敗戦で混乱する戦後の困難な時期を率い、昭和27年(1952)には日本初の鉄筋コンクリートの酒造蔵を竣工、日本有数の酒造会社へと復興させた。 正治は襲名をせず、また本嘉納でも襲名をしなかったので、治郎右衛門(本嘉納)、治兵衛(白嘉納)とも、名跡は途切れた。さらに正治には、本嘉納の八代、九代同様男子がなかったため、長女ひさに婿養子を迎えた。元外交官でホテルニューオータニの会長だった門脇季光の長男秀郎である。秀郎(1934年8月生まれ)は、1973年(昭和48年)に三菱商事から白鶴に転じ、58年に養父の後を受けて白鶴酒造の社長になった。
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