登場 - 昇圧改造まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 05:12 UTC 版)
「阪急610系電車」の記事における「登場 - 昇圧改造まで」の解説
本形式は、1953年8月に登場した610-620-630-660の第一編成を皮切りに順次就役、宝塚線及び箕面線において急行から普通までの全列車種別に充当された。 本形式は改造車ゆえに車両数に変化はなく、車体長は小型車並みの15mでも、車体幅は阪急標準車体寸法を採用して2.75mの幅広車体となったことから、定員は610形及び660形で110人、630形では115人と、種車の51形の90 - 99人、300形から550形までの92人を上回った。また編成当たりの定員も4両貫通編成で450人、2両編成×2本の4両編成で440人と、本形式の4両編成で小型車5両編成並みの輸送力を確保するとともに、老朽木造車の淘汰で安全性の向上、輸送力の増強と体質改善に大きく寄与した。こうして、本形式は宝塚線の主力車として大型車の810・600系、小型車の300・320・380・500・550の各形式とともに運用された。 1956年2月に発生した庄内事件の直後の3月に本形式は全編成就役、宝塚線から51形木造車が姿を消した。その後も宝塚線の輸送力増強は推進され、小型車に続いて本形式の5両編成運行も開始された。このときは4両貫通編成から630形を1両抜いて2両編成の中間に組み込み、3両+2両で5両編成を組成している。また、4両貫通編成の中間電動車を2両とも抜いた2連が箕面線を走ることもあった。 1957年に登場した1200系への機種流用に際しては、660形のうち、663,664,670の3両を除く10両のH-5-イ台車を300形から捻出されたブリル27MCB2に履き替え、H-5-イ台車を550形Mc車及び920系の制御車である950形の一部の車両に転用した。 1960年代に入り宝塚線の6両編成化が進行すると再び3両化されていた4両貫通編成をもとの4連に戻し、4+2の6両編成で運用されるようになった。このとき、非貫通の610及び660が常時先頭に出るように編成の組み換えが行われている。また、この時期になると1100系や2100・2021系の増備や神戸線からの920系の転属に伴って本形式が急行運用に投入される機会は減っていたが、箕面線直通の準急運用や普通運用ではまだまだ主力として運用されており、1963年12月のダイヤ改正で小型車の宝塚線本線運用が消滅した後も、本形式は大型車に混じってこれらの運用に充当された。
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