発明実業家として
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1908年(明治41年)16歳の時に酸素アセチレン溶接を学びに、大阪桜島(此花区)でフランス人が経営していた日本オキシゼーヌ・アセチレーヌ會社に入社する。一度は受け入れを拒否されたが福松の熱意が通じ雑役として採用され、のちに影で行っていた努力が評価され正式な溶接工として昇格、フランス人技師のロワイエとセギーの下で学んだ。酸素溶接がヨーロッパで一般化したのは入社の3年前である1905年ぐらいからであり、後に出版される『全溶連史』(1979年全国高圧ガス溶材組合連合会刊)では福松を「我が国最初の溶接工」と紹介していることから、日本の溶接工の草分け的な存在であったことがわかる。 フランス人技師に評価されていたが1910年(明治43年)に退社し金本鉄工所へ帰る。1914年(大正3年)からの大戦景気が追い風となり金本は大きく成長した。1915年(大正4年)いわゆるのれん分けの形で、第二金本着工所を直方市西町に開業する。1921年(大正10年)、当時としては画期的であった6インチ以上の大口径鋼管の製造を発明する。同年、直方市大正町にて日本スチール管株式会社を創業し社長兼技師長となるも、戦後恐慌の影響で倒産してしまう。 1923年(大正12年)再び大阪に出て大阪鋼管商店の支配人とともに日本特殊鋼管合資会社を設立する。この会社は成功したが経営方針をめぐって対立した。 1926年(昭和元年)退社し西淀川区で東洋径大鋼管製造所(のち径大鋼管製造所)を創業、社長に就任する。福松は2つの特許と3つの実用新案を取得しその技術力は評価されていたことから、会社は大きく成長した。1929年(昭和4年)発明が評価され大阪府知事より賞状を受け、1934年(昭和9年)6月28日付大阪朝日新聞にはその技術力と順調な経営が紹介されている。
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