発掘の歴史と論争とは? わかりやすく解説

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発掘の歴史と論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 10:55 UTC 版)

吉見百穴」の記事における「発掘の歴史と論争」の解説

弥生土器発見者一人でもある東京大学学生坪井正五郎は、1884年明治17年)に人類学会を創設した。そして大学院生となった坪井1887年明治20年)、卒業論文一環として吉見百穴発掘行い地元素封家貴族院議員郷土史家根岸武香発掘支援した吉見百穴発掘は、日本における人類学考古学黎明期に、その中心人物である坪井の手によって行われたものであり、日本考古学史上重要な位置占める。 発掘調査の後、坪井横穴住居とする説を唱えた。その趣旨以下の通り住居用の設備構造有している。 日本人住居としてはサイズ小さすぎる。 よってコビトのような日本先住民族コロポックル住居として作られたものであろうその後古墳時代に葬穴用に再利用された穴もある。 しかしすぐに、弥生土器共同発見者であり人類学創設同志である白井光太郎匿名学会誌反論掲載した白井は、横穴は墓であるとした。白井ら及び後の研究による反論趣旨以下の通り住居とするだけの十分な証拠がない。 またコロポックル存在確認出来ない台座状の構造副葬品壁画など古墳石室同様の特徴がある。 薄葬令出され時期と穴建設が盛んとなった時期おおむね一致する。 したがって横穴最初から墓として作られたものである住居ではない。 当初坪井白井構図論客交えて「居穴か墓か」論争続いたが、明治時代から大正時代にかけての考古学発達及び坪井死去1913年大正2年))によりコロポックル住居説は衰え集合墳墓という説が定説となっていった。そして吉見百穴1923年大正12年)、国の史跡指定された。また地元松山高校郷土部は永く地域埋蔵文化財調査行っており、吉見百穴についても調査貢献している。

※この「発掘の歴史と論争」の解説は、「吉見百穴」の解説の一部です。
「発掘の歴史と論争」を含む「吉見百穴」の記事については、「吉見百穴」の概要を参照ください。

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