町並みの形成とその発展
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「佐原の町並み」の記事における「町並みの形成とその発展」の解説
小野川沿いの商業都市としての町並みは、遅くとも南北朝時代に作られたとされる。佐原の地は香取神宮領内にあった村落の1つであるが、元々は小野川と香取海の間に形成された砂州の堆積によって形成された無主地であったとみられ、香取神宮の支配も限定的であったことがその後の町の発展に影響を与えたと考えられる。1374年頃に作成された「海夫注文」と呼ばれる文書にはこの地域の主要な津(港)の名前が記されており、その中に「さわらの津 中村」という表記があり、これは千葉氏の被官である中村氏が佐原の地頭であったことを示しているとみられる。また、1388年にこの中村氏によるものとみられる「嘉慶二年一二月一一日付中村胤幹還付状(写)」によって当時の佐原に市場や宿が形成されていたことが判明する。はじめは小野川の東側が中心であったが、江戸時代に入る頃には西側まで範囲が拡大した。そしてこの時期から、東側を「本宿」、西側を「新宿」と呼ぶようになった。 利根川東遷事業が完了し、小野川が利根川と繋がると、東北地方などから物資が利根川を経由し江戸へ至るルートが確立されたため、佐原はその舟運の拠点となった。新宿では定期市(六斎市)が開かれにぎわった。さらに、醤油や酒の醸造業が盛んとなった。江戸中期には35軒もの造酒屋が存在し、関東灘とも呼ばれた。佐原は香取街道のほか銚子方面、成田方面への街道も通じ、陸上交通の要衝でもあった。 江戸時代後期の1838年には、人口が5647人を数えた。この江戸後期から明治時代にかけてが、佐原の最も栄えた時代である。その繁栄の様子は、1855年の『利根川図志』にも取り上げられている。同書によると、小野川を利用する商人や旅人は両岸の狭いことをうらみ、往来する舟や人は昼夜止むことがなかったという。 また、他の地方から佐原に店を出す商人もあった。たとえば京都の2代目杉本新右衛門は、「日本国中、正月の元日から商売の出来るのは、伊勢の山田と下総の佐原である」として、1786年、佐原に呉服屋「奈良屋」を出店し、佐原を代表する商店となった。こういった経済的な繁栄は文化にも影響を与え、楫取魚彦、伊能忠敬を輩出することとなった。 1898年、佐原まで鉄道が開通すると、東京までの物資の輸送としての舟運は下火になるが、代わりに、周辺の鉄道が通じていない農村から米などの物資を佐原駅まで舟で運搬し、それを鉄道で他地域に運ぶというルートが確立したため、その後も繁栄は続いた。1920年の国勢調査では、佐原の人口は15299人で、これは千葉県内では千葉、銚子に次ぐ数字であった。
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