甲斐銚子塚古墳とヤマト王権
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「甲斐銚子塚古墳」の記事における「甲斐銚子塚古墳とヤマト王権」の解説
4世紀後半には畿内において確立したヤマト王権の影響が東国に及び、銚子塚古墳のほか静岡県の松林山古墳、長野県千曲市の森将軍塚古墳など東海・中部地方においても前方後円墳が出現し、この地域の首長の序列化が行われていたと考えられている。 甲斐銚子塚古墳は後円部の三段築成や石室構造・埋葬頭位、朱の使用、葺石、埴輪などの副葬品から、中国の神仙思想に起源を持つ畿内の埋葬形態や古墳儀礼との共有性が指摘される。 また、副葬品としてヤマト王権への服属の代償に分与されたとする説がある三角縁神獣鏡がみられることから、この時期に中道地域はヤマト王権に組み込まれ、新興勢力あるいは王権に服属した弥生時代以来の在地勢力による築造であると推定されている。銚子塚以後の中道地域では、丸山塚古墳や天神山古墳を経て古墳の規模は縮小している。同盟関係が指摘される岡銚子塚古墳を中心とした笛吹市八代地域でも同様に規模を縮小させており、ヤマト王権の東国中継地としての役割が低下し、丘陵地域の勢力は衰退していったと考えられている。 また、東国においては主要な交通路に一定間隔で畿内型古墳が分布する傾向があり、古代甲斐国においても同盟関係をもつ連合政権の一因としてヤマト王権の中継地点になっていた可能性が考えられている。 『古事記』『日本書紀』には景行天皇皇子のヤマトタケルノミコト(倭建命、日本武尊)が東征の帰路に酒折宮(甲府市酒折)へ立ち寄り、「御火焼之老人」と問答歌を交わしたという伝承がある。 この酒折宮伝承の歴史的背景に関して磯貝正義・原秀三郎は、ヤマト王権により東征の論功行賞が反映されており、「御火焼之老人」は銚子塚古墳の被葬者に相当すると解釈する説があり、古代甲斐国は甲斐銚子塚古墳が築造された4世紀段階においてヤマト王権に服従したとした。 一方で、酒折宮伝承は6世紀段階の甲斐国と畿内の関係を示しているとする説もある。
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