田中政権の瓦解とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 田中政権の瓦解の意味・解説 

田中政権の瓦解

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

三木武夫」の記事における「田中政権の瓦解」の解説

三木福田保利の三閣僚辞任したが、田中政権持ちこたえた田中政権金権体質対す世論からの厳しい批判を受け、自民党椎名悦三郎副総裁会長とする党基本問題運営調査会発足させた。この頃若きジャーナリストであった立花隆田中金権政治あり方見てあれだけの金が使われているのだから、大金入手するからくりがあるはずだと調査進めていた。 1974年昭和49年10月9日田中金銭問題暴く立花の「田中角栄研究 その金脈人脈」と、女性問題切り込んだ児玉隆也の「淋しき越山会女王」が掲載された『文藝春秋11月号が発売された。特に立花記事田中資産資金分析し資産形成の過程違法な手段駆使していたことをあぶりだしていた。立花らの記事について、当初マスコミからの反応鈍かった、しかし10月22日外国人記者クラブ記者会見の席で田中疑惑徹底的に追及されたが、満足な返事出来なかった。以降日本マスコミ田中金脈問題追及火の手上げた金脈問題が明らかとなった田中内閣支持率20パーセント下回るようになり、政権末期的な様相呈してきた。 窮地追い込まれ田中には重要な外交日程が二件あった。10月28日からのニュージーランドオーストラリアビルマへの外遊と、11月18日からのアメリカフォード大統領来日予定であった田中外遊出発前、参議院議長河野謙三尋ね外遊米大統領来日済ませた総辞職することを示唆した河野記者団田中退陣考えていることを匂わせたため、10月末には田中退陣大きく報道されることになった外遊から帰国後、11月11日田中内閣改造行った田中現職アメリカ大統領として初の日本訪問となるフォード大統領訪日控えていた。フォード訪日前の首相辞任日米関係悪影響を及ぼすと考えられそれまでの間の政権浮揚図ったものであった。しかし政権末期症状顕著であった田中退陣はもはや既定路線であり、後継総裁をめぐる動き始まっていた。 7月田中政権閣僚辞職していた三木福田はともに機を伺っていた。1972年昭和47年)の総裁選田中激しく争った福田後継総裁本命視されていた。一方三木少数派閥の領袖であり、1972年昭和47年)の総裁選で4名の候補者の中で最下位惨敗したこともあって、当初田中後継総裁となる可能性は低いと見られていた。しかし三木閣僚辞任後全国各地講演行い各地多く国民からの応援受けていた。そして10月末の田中退陣避けられない情勢下で、三木次期総裁灘尾弘吉自分かいないとの自負見せていた。

※この「田中政権の瓦解」の解説は、「三木武夫」の解説の一部です。
「田中政権の瓦解」を含む「三木武夫」の記事については、「三木武夫」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「田中政権の瓦解」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「田中政権の瓦解」の関連用語

田中政権の瓦解のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



田中政権の瓦解のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの三木武夫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS