田中政権の瓦解
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三木、福田、保利の三閣僚が辞任したが、田中政権は持ちこたえた。田中政権の金権体質に対する世論からの厳しい批判を受け、自民党は椎名悦三郎副総裁を会長とする党基本問題、運営調査会が発足させた。この頃、若きジャーナリストであった立花隆は田中の金権政治のあり方を見て、あれだけの金が使われているのだから、大金を入手するからくりがあるはずだと調査を進めていた。 1974年(昭和49年)10月9日、田中の金銭問題を暴く立花の「田中角栄研究 その金脈と人脈」と、女性問題に切り込んだ児玉隆也の「淋しき越山会の女王」が掲載された『文藝春秋』11月号が発売された。特に立花の記事は田中の資産や資金を分析し、資産形成の過程で違法な手段を駆使していたことをあぶりだしていた。立花らの記事について、当初はマスコミからの反応は鈍かった、しかし10月22日、外国人記者クラブの記者会見の席で田中は疑惑を徹底的に追及されたが、満足な返事が出来なかった。以降、日本のマスコミも田中の金脈問題追及の火の手を上げた。金脈問題が明らかとなった田中内閣の支持率は20パーセントを下回るようになり、政権は末期的な様相を呈してきた。 窮地に追い込まれた田中には重要な外交日程が二件あった。10月28日からのニュージーランド、オーストラリア、ビルマへの外遊と、11月18日からのアメリカのフォード大統領来日予定であった。田中は外遊出発前、参議院議長の河野謙三を尋ね、外遊と米大統領来日を済ませたら総辞職することを示唆した。河野は記者団に田中が退陣を考えていることを匂わせたため、10月末には田中退陣が大きく報道されることになった。 外遊から帰国後、11月11日に田中は内閣改造を行った。田中は現職のアメリカ大統領として初の日本訪問となるフォード大統領訪日を控えていた。フォード訪日前の首相辞任は日米関係に悪影響を及ぼすと考えられ、それまでの間の政権の浮揚を図ったものであった。しかし政権の末期症状が顕著であった田中の退陣はもはや既定路線であり、後継総裁をめぐる動きが始まっていた。 7月に田中政権の閣僚を辞職していた三木と福田はともに機を伺っていた。1972年(昭和47年)の総裁選で田中と激しく争った福田は後継総裁の本命視されていた。一方三木は少数派閥の領袖であり、1972年(昭和47年)の総裁選で4名の候補者の中で最下位と惨敗したこともあって、当初田中の後継総裁となる可能性は低いと見られていた。しかし三木は閣僚辞任後全国各地で講演を行い、各地で多くの国民からの応援を受けていた。そして10月末の田中退陣が避けられない情勢下で、三木は次期総裁は灘尾弘吉か自分しかいないとの自負を見せていた。
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