田中内閣での施策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 20:08 UTC 版)
第1次田中内閣が発足すると、田中は首相の私的諮問機関として日本列島改造問題懇談会を設置し、1972年8月7日の第1回を皮切りに会合を重ねた。当初75名だった懇談会の委員は途中で90名に増員された。グリーンピア構想は列島改造論に促されて具体化し、同年8月に厚生省年金局と大蔵省理財局がグリーンピア設置に合意した。同年9月には総理府政府広報室が列島改造論について「知っているか・主要点の賛否・期待」などについて面接聴取している。青函連絡船の洞爺丸事故を機に1961年から建設中だった青函トンネル掘削工事は、異常出水などで多くの殉職者を出し困難な鉄道建設事業だったが、首相の「本州から北海道まで、金に糸目をつけずに掘れ」の一言で予算が増額されたことで工事は徐々に軌道に乗り始め、18年を要して後に1988年に開通した。 これらに触発されて日本列島改造ブーム(列島改造ブーム、列島改造景気)が起き、列島改造論で開発の候補地に挙げられた地域では投機家によって土地の買い占めが行われて不動産ブームが起き、地価が急激に上昇した。この影響で物価が上昇してインフレーションが発生し、1973年(昭和48年)春頃には物価高が社会問題化した。 これに対して政府は「物価安定七項目」を対策として打ち出し、生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急措置に関する法律を制定し、公定歩合を4回にわたって引き上げるなどしたが、十分な効果は上がらなかった。その一方で列島改造論の柱の一つとなっていた新幹線については、建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画への追加が検討され、候補に挙げられた地域の関係者や国会議員が活発な誘致運動を繰り広げた結果、同年11月15日に運輸省告示で11路線を追加することが決まった。列島改造論で取り上げられた本州四国連絡橋の基本計画が指示されたのも同年9月のことである。 しかしその最中に勃発した第四次中東戦争を契機に発生したオイルショックは、物価と経済に決定的な打撃を与え「狂乱物価」と呼ばれる様相を呈するに至った。この影響で、5日後に迫った本州四国連絡橋の着工は同年11月20日に延期が決定した。 そして同年11月23日に愛知揆一大蔵大臣が急死すると、田中は内閣改造に踏み切り第2次田中角栄内閣が発足。後任の大蔵大臣として、均衡財政論者で列島改造論を批判する福田赳夫を起用せざるを得なくなった。福田は総需要抑制策による経済安定化を図ることになり、列島改造論の施策は一定の後退を余儀なくされた。
※この「田中内閣での施策」の解説は、「日本列島改造論」の解説の一部です。
「田中内閣での施策」を含む「日本列島改造論」の記事については、「日本列島改造論」の概要を参照ください。
- 田中内閣での施策のページへのリンク