田中内閣と山東出兵とは? わかりやすく解説

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田中内閣と山東出兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 19:02 UTC 版)

昭和」の記事における「田中内閣と山東出兵」の解説

田中内閣は、張作霖動かして満蒙での諸懸案解決図ろうとして3回 に及ぶ山東出兵行い東京外交軍部関係者集めて東方会議開き満蒙利権死守することを確認した。これに基づいて政府張作霖交渉し満洲権益拡大図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車1928年昭和3年6月4日爆破して暗殺した満州某重大事件)。関東軍当初この事件中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際関東軍参謀河本大作仕業であったこのため国内野党から満州某重大事件」として追及され田中首相上奏ようとしたが、昭和天皇から説明聞きたくないと不快感表明され田中内閣このため1929年昭和4年7月2日総辞職した世上では首相の名前(義一)を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄された。 田中内閣は、第二次護憲運動誕生した護憲三派内閣である加藤内閣加藤高明首相とりわけ外相である幣原喜重郎が行った外交政策である中国内政不干渉政策幣原外交)を「軟弱外交」として批判して登場した。そのため、田中は自ら外相兼任し中国での革命進展に対して強く干渉した。 ところが、中国での武力行使対す列国批判を交わすためもあって1928年昭和3年)、フランスパリ締結されいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただ、この不戦条約第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争放棄することを謳っており、「国体ないがしろにするもの」とする批判国内生じたこのため新聞紙上で侃々諤々論議が行われた末、翌年至り、「其ノ各自人民ノ名ニ於テ」という文言日本について適用外とする宣言付して批准された。また、田中内閣国内思想取締強化図ったことでも知られている。

※この「田中内閣と山東出兵」の解説は、「昭和」の解説の一部です。
「田中内閣と山東出兵」を含む「昭和」の記事については、「昭和」の概要を参照ください。

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