環境省から丸三証券へ転身
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 06:16 UTC 版)
「金子太郎 (大蔵官僚)」の記事における「環境省から丸三証券へ転身」の解説
丸三証券創業者の長男である長尾貫一社長が、病床から自らの余命が短いことと貫一の長男栄次郎との繋ぎとして、自ら、当時環境庁事務次官の金子に社長就任を懇願。大蔵省が金子の退職後ポジションを用意をしていたとみられるが、金子本人は自らの天下りには否定的で、のちに「退官後はすっぱりやめたい。役所の用意する特殊法人に行くよりも、慶應義塾大学で教鞭をとることについて内諾を得ていた」と語っていた。長尾貫一の「私は兜町で50年、人を見てきた。私の目に狂いはない。あなたはこの仕事が務まるし、好きなはずだ」との口説き文句を受け、1981年に急遽丸三証券の社長に就任。その直後に長尾貫一が死去。社長就任後、直ぐに、日本生命保険と日本興業銀行(現みずほ銀行)から資本調達をし、資本増強し、中堅証券として上場。証券会社の経営者としての矢継ぎ早の施策で、バブル時代の優良証券会社の一社に数えられるまでになった。[要出典] 松本和男の『現代の株名人ー人生と相場哲学を語る』(日本経済新聞社、1989年)には、日本を代表する相場師4名の一人として描かれている[要ページ番号]。 丸三証券会長を退いてからは、日本の若者の金融リテラシーをあげるため、講演を続けていた。 2020年12月26日、死去。95歳没。
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