犯罪と恩赦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/10 18:50 UTC 版)
「ロージャ・シャーンドル」の記事における「犯罪と恩赦」の解説
1836年に投獄された最初の罪状は馬泥棒だったが、彼自身が犯罪に関わったかについては明確な証拠は残されていない。しかし、それにもかかわらず投獄されたことで、ロージャ・シャーンドルはベチャールとして生きていくことを余儀なくされる。投獄後、ロージャ・シャーンドルは犯罪を繰り返すが、恩赦を受ける1848年まで町役場からの金庫強奪、牛泥棒などを行っていた。恩赦の後は義勇軍を率いてセルビア相手に活躍を見せるが、正規軍の規則を嫌って一ヶ月で離脱して故郷のセゲドに戻る。そこから、盗賊としての活動を再開する。1850年代のロージャ・シャーンドルは活発に動き、貴族、司祭を中心に30件以上の強盗行為と、裏切り者の殺害を行った。ロージャ・シャーンドルは自身が築いてきた名声を利用し、農民らからの支援を受けていたため、1850年前半は手配書を配布し警備を増員したにもかかわらずロージャ・シャーンドルは捕らえられることはなかった。しかし、1850年代の後半に入ると、殺人などの行為が広く知られるようになり、また経済的に安定しつつあったハンガリー農民の意識の変化もあって、次第にロージャ・シャーンドルは追い詰められていく。1857年、ついにロージャ・シャーンドルは親戚のカトナ・パールとともに捕縛された。人間不信に陥ったロージャ・シャーンドルがカトナも裏切ったものとして口論中の逮捕だった。 1859年、ロージャ・シャーンドルはハンガリーの王立裁判所で裁かれることになり、40人の証人が用意されるなど大規模な裁判となった。そのため、新聞が逐次裁判の経過を報道し、ロージャ・シャーンドルの経歴は広くハンガリーの人々に知られるようになる。特にハンガリー革命での活躍がロージャ・シャーンドルの人気を高めた。裁判の結果、ロージャ・シャーンドルに下された判決は死刑だったが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は革命の功労者の死刑が政治的に波紋を広げることを恐れる。その介入により、ロージャ・シャーンドルの死刑は減刑されて終身刑となった。ロージャ・シャーンドルはそれから1868年4月まで収監されていたが、フランツ・ヨーゼフの妻が第三子を出産したことに伴って恩赦が与えられて釈放される。釈放後の彼は裁判中の人気もあって周囲から英雄として迎えられ、ハンガリー首相アンドラーシ・ジュラと面談するほどの厚遇を受けた。ロージャ・シャーンドルは故郷セゲドに帰郷するが、そこでも歓迎を受けたロージャ・シャーンドルは名士として落ち着くかに見えた。 しかし1868年11月、ロージャ・シャーンドルは仲間とともにセゲド郊外の豪商宅を襲撃、翌月には鉄道強盗を試みるなどして強盗を再開した。政府はそれらがロージャ・シャーンドルの犯行とはみていなかったが、悪化した治安に対し、ラーダイ・ゲデオンを派遣する。ラーダイは政府委員の男爵であったが、「鉄の腕」と称されるほどの辣腕を振るう治安の専門家であり、治安の悪化とロージャ・シャーンドルとの関係をいち早く見抜いていた。ラーダイはロージャ・シャーンドルが望んでいた治安官への斡旋を匂わせてロージャ・シャーンドルを誘いだし、1869年1月に捕らえることに成功する。ロージャ・シャーンドルは再び注目の中で裁判を受けることになり、下された判決は再度の終身刑だった。以降、ロージャ・シャーンドルはサモシュウーイヴァール監獄(現ゲルラ)に捕らわれ、その年の11月に肺結核で生涯を終えた。
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