烏山の山あげ行事
名称: | 烏山の山あげ行事 |
ふりがな: | からすやまのやまあげぎょうじ |
種別1: | 風俗習慣 |
保護団体名: | 烏山山あげ保存会 |
指定年月日: | 1979.02.03(昭和54.02.03) |
都道府県(列記): | 栃木県 |
市区町村(列記): | 那須烏山市 |
代表都道府県: | 栃木県 |
備考: | 7月25~27日 |
解説文: | これは永禄三(一五六〇)年、疫病が当地方に流行したので、時の城主那須資胤(余一の子孫)がこの災厄をさけるため牛頭天王【ごずてんのう】を町の中央に祠り、天下泰平、五穀豊穣、厄除開運を祈願したのに始まるもので、その後山あげを行ない、今日まで伝えられてきているものである。 山あげ祭は七月二十四日の宵まつり(各町で笠揃い、屋台整備、所作狂言〔おどり〕を行なう)、二十五日が神輿【みこし】の御仮屋奉遷、御仮屋での各町の山あげ、所作狂言【しよさきようげん】奉納で、二十六日は神輿の各町渡御【とぎよ】、山あげ、所作狂言の各町まわり、屋台曳行【やたいえいこう】、二十七日は山あげ所作狂言、神輿還御等の次第で行なわれる。 山あげとは、もともと八雲神社の祭神の訪れを氏子がヤマを作って奉迎し芸能を御覧にいれてその御心を慰め、氏子もともに見て喜ぶという信仰的な行事であった。今日では、山あげのヤマを芸能の舞台の一部とみる傾向にあるが、古くは神の降臨するところと考えられていた。 所作狂言の演目には「三番叟【さんばそう】」「将門【まさかど】」「戻橋」「紅葉狩」「宗清」「忠信」「関【せき】の扉【と】」などがある。常磐津節によるこれらの演目を町の踊り子達が路上に立てられたヤマの前面で踊る。 ヤマは町の各所をまわり、そこで路上百メートルもの奥行の舞台を仮設して前述の所作狂言を行なうが、移動の際はいちいち組立て及び分解を行なう。これには百五十人ほどの若衆を必要とし、木頭と呼ばれる役付きの若衆の打つ拍子木の合図で規律正しく数分間のうちに組立てまたは分解の作業を完了するのを自慢とする。 この山あげ行事は竹や烏山和紙などの特産材料及び屋台や地車【じんぐるま】を巧みに用いて造るヤマでの多彩な所作狂言を上演する当地独特の行事であり、全国に類例を見ない重要なものである。 |
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