漁翁による物語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/23 17:17 UTC 版)
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 『源平合戦絵図』錏引きの場面(『平家物語』では平景清と美尾屋十郎)(左)、義経方の佐藤継信と平家方の菊王丸の最期(右)。 僧は、この地は源平の合戦の地だと聞き及んでいると言って、その物語を聞かせてほしいと求める。漁翁は、お安いことだと言って、屋島の戦いの有り様を語って聞かせる。 シテ「いでその頃は元暦元年三月(がち)十八日のことなりしに、平家は海の面(おもて)一町ばかりに船を浮かめ、源氏はこの汀(みぎわ)にうち出でたまふ、大将軍のおん出立(いでたち)には、赤地の錦の直垂に、紫裾濃(むらさきすそご)のおん着背長(きせなが)、鐙(あぶみ)踏ん張り鞍笠に突つ立ち上がり、一院のおん使、源氏の大将検非違使(けんぴいし)、五位の尉、源の義経と 〽名乗りたまひしおん骨柄(こつがら)、あつぱれ大将やと見えし、いまのやうに思ひ出でられて候 [漁翁]さて時は元暦元年3月18日のことであったが、平家は海の一町ほど沖合いに船を浮かべ、源氏は海岸に打って出た。大将軍の出立ちは、赤地の錦の直垂に、紫の糸で縅した鎧姿で、鐙を踏ん張って鞍に立ち上がり、「一院(後白河上皇)の御使、源氏の大将、検非違使五位の尉、源義経である」と名乗られた御風格は、立派な大将だと思われたのが、今のことのように思い出されます。 まず、このように義経の出立ちについて語られた後は、源氏方の三保谷四郎と、平家方の悪七兵衛景清とが一騎打ちし、景清が四郎の兜の錏(しころ)を引きちぎったという「錏引き」の場面が、漁翁・漁夫の掛け合いで語られる。次いで、義経の腹心佐藤継信が平教経に討たれる一方、教経の童である菊王が討たれたことが短く語られる。 ツレ〽その時平家の方よりも、言葉戦ひこと終はり、兵船(ひょうせん)一艘漕ぎ寄せて、波打際に下り立つて 「陸(くが)の敵(かたき)を待ちかけしにシテ「源氏の方にも続く兵(つわもの)五十騎ばかり、中にも三保(みほ)の谷(や)の四郎と名乗つて、まつさきかけて見えしところにツレ「平家の方にも悪七兵衛景清と名乗り、三保の谷をめがけ戦ひしにシテ「かの三保の谷はその時に、太刀打ち折つて力なく、少し汀に引き退(しりぞ)きしにツレ〽景清追つかけ三保の谷がシテ「着たる兜の錏(しころ)をつかんでツレ〽後ろへ引けば三保の谷もシテ〽身を逃れんと前へ引くツレ〽たがいにえいやとシテ〽引く力に地謡〽鉢付(はちつけ)の板より引きちぎつて、左右(そう)へくわつとぞ退(の)きにける、これをご覧じて判官(ほうがん)、お馬を汀にうち寄せたまへば、佐藤継信(つぎのぶ)、能登殿の矢先にかかつて、馬より下(しも)にどうと落つれば、船には菊王も討たれければ、ともにあはれと思(おぼ)しけるか、船は沖へ陸(くが)は陣に、相引きに引く潮の、あとは鬨の声絶えて、磯の波松風ばかりの、音淋しくぞなりにける [漁夫]その時、平家方からも、言葉での言い合いが終わり、兵船が一艘漕ぎ寄せ、武者が波打際に降り立ち、陸方の敵を待ち構えていたところ、[漁翁]源氏方からも五十騎ほどの武者が続いた中に、三保谷四郎と名乗って、真っ先に駆けて行ったところに、[漁夫]平家方にも悪七兵衛景清と名乗る武者が三保谷を目がけて戦うと、[漁翁]かの三保谷はその時、太刀を折ってしまい、少し汀に退いたが、[漁夫]景清が追いかけ、三保谷の[漁翁]かぶっている兜の錏をつかんで[漁夫]後ろへ引くと、三保谷も[漁翁]逃れようとして、兜を前に引っ張った。[漁夫]互いに「えいや」と[漁翁]引く力に――鉢付の板(錏の一番上の札板)から引きちぎられて、二人は左右へくわっと引き退いた。これをご覧になった判官(義経)が、お馬を汀に進めると、その部下の佐藤継信が、能登殿(平教経)の矢にかかって、馬から下にどうと落ちてしまった。一方、平家方の船では、教経の童である菊王も討たれた。両軍ともこれをお憐れみになったのか、平家の船は沖合いへ、陸の源氏方は陣に、それぞれ潮のように引いて行った。その後は鬨の声も聞こえなくなって、磯の波と松風の音が、淋しく聞こえるだけとなった。
※この「漁翁による物語」の解説は、「八島 (能)」の解説の一部です。
「漁翁による物語」を含む「八島 (能)」の記事については、「八島 (能)」の概要を参照ください。
- 漁翁による物語のページへのリンク