海外交易の進展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 03:39 UTC 版)
「マヌエル1世 (ポルトガル王)」の記事における「海外交易の進展」の解説
マヌエルは、ポルトガルの探検隊や商業の発展を積極的に支援した。マヌエルの命令により、1497年7月にリスボンを出港したヴァスコ・ダ・ガマは、1498年5月にインド のカリカット(コーリコード)に到達した。これにより、ポルトガルから喜望峰を経てインドへ至る海上ルートが発見された。1500年には、マヌエルによってインドに派遣されたペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに漂着した後、東航してインドに着いた。トルデシリャス条約の締結時(1494年)には予想されていなかった位置に存在していたブラジルは、条約の取り決めに基づきポルトガル領となった。 一方、インド洋では古くからアラブのイスラーム商人が活発に交易をしていたが、彼らをここから締め出し、この交易路をポルトガル商人に独占させることを目的として、1505年、フランシスコ・デ・アルメイダを初代インド総督に任命した。この地でのポルトガルの影響力拡大に危機感を抱いたエジプト(マムルーク朝)、オスマン帝国、ヴェネツィアは同盟を組み、ポルトガルに対抗する。1509年にポルトガル艦隊はディーウ沖の海戦でエジプト艦隊を破った。 同年、2代目の総督にアフォンソ・デ・アルブケルケを任命した。彼は1510年、ゴアを占領し、その地をインド領の首府とした。続いて1511年にマラッカを占領し、そこを東南アジアでの中心拠点として、周辺の島々から集めた香辛料などをゴアに送る体制をつくった。さらに1517年には、中国の広東に入港している。この2人の総督時代に、インド洋とペルシア湾での海上ルートは、ポルトガルの独占となり、アジアとポルトガルを直接結びつける海上交易路が完成した。 アフリカでは、海岸沿いに寄港拠点が点在するのみで、内陸の各王朝とは対等な友好関係が築かれ、国王同士で手紙や贈答品が交換された。例えば、コンゴ王国との間の、アフォンソ1世王とマヌエルとで交換された書簡は、両者の関係が良好であったこと、さらには当時のコンゴ王国の実態を知る上で貴重な史料である。 また、大西洋のマデイラ島での砂糖生産を王室の直轄とし、生産量を大幅に拡大させ、ヨーロッパ各地へ輸出可能となった。ポルトガルはアジアからの香辛料、アフリカからの金、そしてマデイラ島からの砂糖によって、莫大な利益を得た。
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