浮島の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 09:28 UTC 版)
縄文時代前期の海進期には、海岸線が現在の新宮市街に大きく侵入しており、現在の新宮市中心市街の全体が入江状の湾(内湾)になっていた。縄文時代の中期から終わりにかけて、海岸線が後退をはじめるとともに、池沼や潟湖からなる湿地帯が広がるようになった。 浮島周辺の地層は、新宮市域の地質の基盤となる熊野層群および熊野酸性火成岩類の上に成立した沖積低地である。この沖積低地の地質的構成は、礫・砂・シルトからなる下層部の上に、粘土層および海成シルト質粘土層からなる中部層が積み重なり、そのさらに上層は泥炭層または砂礫層となっている。中部層は有機物に富み、潮間帯に生息する巻貝や内湾底に生息する二枚貝などの化石が多く産するほか、下層部との間に、およそ6300年前のものと推定されるアカホヤ火山灰層があることから、縄文海進期の内湾の堆積物であることが分かる。上部層の泥炭層は縄文時代後期の海退に伴って広がった沼沢に堆積したものと見られ、河川性の堆積物は欠けている。これらのことから、「「浮島」は、内湾から沼沢へという変遷を経て、沼沢の中で成立したものである」といえ、ときに云われるような熊野川の直接的な作用による形成を示す証拠はみられない。 この沼沢は熊野川沿いの自然堤防や大浜沿いの浜堤あるいは段丘などによって囲まれていたためにながく残り、近世初頭まではかなりの広さがあったと伝えられている。加えて、豊富な地下水の供給に恵まれたことで、沼池で枯死した植物の遺体が腐敗することなく泥炭状に変化したことが泥炭層の形成に効果的に作用したと見られ、浮島を形成する泥炭は、この沼沢地で形成されたものである。 泥炭層の堆積年代についてはいくつかの年代測定が行われてきたが、2000年に新宮藺沢浮島植物群落調査委員会が実施した放射性炭素年代測定の結果から推定されるところによれば、水層の直上の泥炭層が堆積したのは1710年の前後40年程の期間と見られ、歴史的には宝永年間(1704年 - 1710年)前後の江戸時代初期と重なる。これらから求められる泥炭の堆積速度は1.9 - 2.3 mm/年となり、一般的な堆積速度(0.6 - 1.0 mm/年)からするとかなり大きい。
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